山の向こうにあるあの都市は何だろう
ヴァイオレット色の空の裂け目 再建 爆発
崩壊する塔
イェルサレム アテネ アレクサンドリア
ウィーン ロンドン
まぼろし
(T. S. エリオット『荒地』より)
(『幻想の城』②よりつづく)
わたしたちは「化城」というまぼろしを見ながら、まぼろしの中に生きている。空が紫色に染めあがり、数多くの文明が破壊され、再建され、また崩れ去った。森、彗星、書物、空、……そして街を焼いていく火……燃える炎とは、狂気なのか?欲望なのか?あるいはその両方なのか。
第3回では、宇宙論との重ね合わせのほか、法華経各章の中でとりわけ類縁性の深い譬喩品とも比較しながら、化城喩品を読み込んでいきたい。
(本ブログでは種々の聖典について言及するが、それらはいっさいの教義に対する解釈ではなく、叙事詩や物語としての吟味であるということを申し添えておきたい)
ビッグバン宇宙モデルを示唆?「フリードマンの二つの仮定」を援用
さて、16人が2人1組になって8方向に展開する〝絵〟について。不自然だと思われるのは、最後の16人目の釈迦如来がこの写像の「中央」に位置しているため、せっかくの各方向の対称性が崩れてしまっているように見える、ということだ。
この点について筆者がまず第一に思いついたのは、あえて対称性を破ることによって生じる世界の中でこそ、正しい教えを弘めることができるのだ、という仮説だ。だがこれだけだとちょっと弱い。(=筆者の体感。感じ方には個人差があります)
次に筆者が思いついたのは、この世界モデルがアレクサンドル・フリードマンが一般相対性理論を用いて「膨張する宇宙」モデルを導出した際に立てた「二つの仮定」に照応するのではないか、というものだ。
フリードマンの仮定とは
①ここからどの方向を眺めても、宇宙は同じように見える。
②ここ以外の別のどの場所においても、同じことが言えるだろう。
の二つからなる。フリードマンはこの二つの仮定から出発し、アインシュタイン方程式を使って「過去のある時点で大きさのない宇宙が誕生し、その後、急速に膨張する」という宇宙モデルを見いだした。この考えはビッグバン宇宙論のさきがけとなるものだったが、発表当初はかえりみられなかった。
吉田伸夫博士によれば、最先端技術を用いた観測データでは、近場の宇宙はごちゃごちゃしているが、観測範囲を大きく広げると、宇宙はどこを見ても一様に拡がっているように見えるという。
狭い範囲に限ると、銀河の分布には確かにムラがある。数億光年程度のスケールでは、銀河の集まり方は、洗剤を撹拌したときに生じる無数の泡に似ている。銀河は、泡の表面に相当するシート、あるいは、シートが交わるフィラメント状の領域に集中しており、(中略)もう少し広い範囲で平均すると、次第に構造ははっきりしなくなり、天の川銀河を取り囲む球面上の密度は、どの方位でもほとんど一定となる。(『宇宙に「終わり」はあるのか』吉田伸夫著)
観測技術が狭い範囲に限られていた頃は、地球の近所しか見ることができなかった。しかし近年、特殊な技術を使って広範囲の観測データを3次元地図に落とし込むプロジェクト(スローン・デジタル・スカイサーベイ Sloan Digital Sky Survey, SDSS )により、数十億光年~の広いサイズ感覚で宇宙の様子を眺めることができるようになった。吉田博士が「どの方位でもほとんど一定」と書いたように、そこでは銀河の等方性、一様性が確認できるという。
等方性を持って一様に拡がる16の如来たち
十六の如来も等方性を持って広がっているように見える。ところが「まさに中央にあるこのサハー世界」(中公文庫版の訳による)から見ると、北東で釈迦如来とコンビを組んでいる壊一切世間怖畏如来だけが相方がいなくて、なんだかバランスがよくない。
だがこれはサハー世界を宇宙の中心に置く視点設定によって、観測者自身の位置が盲点になるために起きる現象なのではないか?というのが筆者の拙い仮説だ……自分自身の目を直接見ることはできない。自分の目は視界よりもこっち側、内側、要するに自分の側にあるので、目をグルグルどの方向に回しても視界から捨象されてしまう。自分の視点という定まった位置からは、自分自身を直接観測することができない(なんとなく不確定性原理に似ているが、問題の在り処が相違していると思われる)。
そこで銀河観測の場合と同じように、サハー世界中心の設定から離れて、自由自在に観測する手法を使ってより広い視野が得られるところまでカメラを引くと、十六の如来たちが調和を保って、融通無碍に拡がり、繋がりあっている様子を見ることができるだろう。すべての世界の関係性を俯瞰できる位置に立てば、北東の方角も、ちゃんと二人の如来がコンビを組んでいるところが見えるはずだ。
そしてこの事情は、他の如来たちにとっても同じなのだ。それぞれの如来が「まさに中央にある」それぞれの世界で、それぞれの法華経を説いている。その世界の法華経では「釈迦如来」の部分が「○○如来」と、それぞれの名前が記載されている。パッと見では自分の如来の世界が中心に見えるし、それはそれで一向にかまわない。自分中心の天動説は科学的には正しくないが、体感としてはこちらのほうが合っている。だが見宝塔品などで明らかなように、自分が住む世界を含むそれらの世界は無限の中の一つだった。
どの一点も中心ではないのなら、逆にどこを中心に据えてもいいし、そうであるとすればすべての点が中心でもある。この条件は他のどの世界でも変わらないこと、どの世界にいても同じように言えることではないか?
こうしてわたしたちはフリードマンの第二の仮定「ここ以外の別のどの場所においても、同じことが言えるだろう」が成り立つ地点に到達した。ところで前述のように、このフリードマン宇宙モデルは、現代科学において主流になっているビッグバン宇宙論を生む大きなきっかけを作るものだった。とすれば、フリードマンの宇宙観を支持している「十六の如来たちの等方性」モデルは、宇宙がビッグバンで生まれたことを示唆しようとした如来の〝巧みな方便〟だったのか?だがこの点については今後の宇宙論の進歩と、人類の知性の進化を待たなければならない。
つまり化城喩品のこの部分の記述はこう言っているのかもしれない、「意図的に対称性の世界を破ることで説法に資するための時空を創出する。同時に、それぞれの世界が一様性、等方性を持って融通無碍に繋がり合っている世界像を描出し、世界の成り立ちと仕組み、そして全宇宙の根源となるものを示そうとした」のだと。
屋敷と子どもと玩具――譬喩品との類縁性
仏教史的には、釈迦滅後に顕在化し激化していった小乗と大乗との相克を止揚して、「ただ一つの乗り物」(方便品)や「大きな乗り物」(譬喩品)にたとえられる「一乗」にまとめ上げることが、当時の仏教界の一大課題だった。真のさとりは「ただ仏陀の乗り物のみによって」(譬喩品)到達できるのだということが、法華経の中の種々のたとえ話によって幾度も説かれている。
譬喩品と化城喩品の両方に、大きな屋敷と子どもたちと玩具のたとえが出てくる。大乗の教えが一番、というたとえ話に使われるアイテムだ。
譬喩品で特徴的なのは、屋敷の老朽化が激しく、魑魅魍魎の巣窟になっているという点だ。たくさんある小部屋のひとつひとつで、狼が屍の肉をあさっていたり、虫がうごめき、屋敷のあちこちで餓鬼やヤクシャ、ピシャーチャカ、クンバーンダが徘徊し、お互いを引き裂き合っている。おぞましい描写だ。屋敷の外観は次のように描かれる。
それは大きくて高いが、まったく弱体であり、古くなって朽ちはて、力弱く、とるに足らぬものである。(『法華経』譬喩品。中公文庫より)
崩れかかった屋敷はそのうちに火事になって炎を吹き出し始める。屋敷は物欲に焦がれた物質文明の象徴であろう。21世紀にいたり、資本主義は人類文明史上空前の繁栄を極めたと言われているが、その栄華はいま目の前で起きている破滅的な戦乱に帰結しようとしている。イェルサレムに始まり、ロンドン、パリ、ベルリン、ニューヨーク、モスクワ、東京、北京、……これらの名はすべて〝崩壊する塔〟のたとえに過ぎない。
譬喩品には化城喩品の深い暗黒に覆われた「中間の世界」に似た概念「暗黒の無明の闇の膜」が描かれている。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の中で「マーヤーのヴェール」について「ヴェーダやプラーナに幾度となく出てくる」と言っているが、暗黒の闇の膜や、中間の世界の闇、あるいは陽炎のような城のまぼろしなどの形象は、古代インド文献の定番だったのだろう。
(【参考】拙稿「スターシードオラクル、弥勒、洗礼者ヨハネ、ショーペンハウアー」)
譬喩品・化城喩品に共通なのは、富豪(太子)の屋敷に住む子どもたちが正しい教えを獲得するために、それまで手に持っていた楽しく美しい玩具を投げ出して屋敷の外に出るというところだ。子をラーフラ(障害)と名付け、豪奢な邸宅を離れてひとり修行の旅に出たお釈迦様の心象風景に、どこか重なるところがある。
子どもたち、王子たちは、屋敷から出て物質的な富や名誉を捨てる。それまで手に持って遊んでいた玩具を放り出して、正しい教えの道に入る。化城喩品のこのくだりを読んだ読者は譬喩品のことを思い出し「ああ、あの素晴らしい乗り物の話だな」と記憶をよみがえらせる。同じモチーフを扱いながら、化城喩品では幻想の城のたとえ話に変奏され、物語は深みを増していく。
まぼろしに安住する魂たち ~「化城」の現代的意味とは~
化城喩品の「城」は、飽くまで真の正しい教えに到達するまでの休憩処のような扱いになっている。これは前述した法華経編さん当時の仏教界の現実を反映しているものだ。説一切有部など上座部系との軋轢を乗り越えるための現実的要請として、こうした説法が生まれたと見られる。
ところで、最末法に生きる現代のわたしたちは、「城」にまた違ったイメージと意味合いを感じざるを得ない。古代インドでは如来の神通力で小乗から大乗に至る方便としての城が説かれた。だが、当時の社会的要請から書かれたテキストを当時の解釈そのままで読み取るのではなく、現代の社会情勢に当てはめて読みかえる自由を、全知者は許してくれるだろう。
ではわたしたちの「城」とはなにか。現代のメタバースはどうなのか。そこには如来が化作した仮想オアシスとは到底思えない苛烈な現実がある。現代にとっての「城」はむしろ、譬喩品の魑魅魍魎が徘徊する屋敷のような、人類の悪しき集合意識が投影された物欲のホログラムなのではないか。
手に持たされたなにやら美しげな玩具に幻惑されながら、燃え盛る欲望と狂気の城を彷徨するわたしたち。
幻影のヴェールを手で持ち上げることも、それどころかそれがあることに気づくことさえもできずに、まぼろしの城の中で魔物たちと共存する道を選ぶわたしたち。
20世紀は欲望と破壊に終始した百年だった。わたしたちがまだ同じ道の上をあゆむならば、21世紀はこの先、狂気と破滅を夢みるだろう。不思議に居心地の良いまぼろしの城が炎に焼き尽くされる前に、わたしたちは美しい玩具を手放すべきではないのか。
そして本稿もまた、さして美しくもない玩具に過ぎないであろう。(これらの言説がいっさいの教義に対する解釈ではなく、叙事詩や物語としての吟味なのだということをあらためて申し添えておきたい)
(『幻想の城』おわり)
【参考】
大乗仏典〈4〉法華経I(中公文庫) 文庫本–2001年12月20日
松涛誠廉、丹治昭義、長尾雅人
法華経 上 (岩波文庫) Paperback – October 18, 1976
坂本 幸男 (翻訳), 岩本 裕 (翻訳)
宇宙に「終わり」はあるのか 最新宇宙論が描く、誕生から「10の100乗年」後まで (ブルーバックス) – February 15, 2017 吉田 伸夫 (著)
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