如来寿量品と光速度不変との関係 ~わたしという存在の不安について~

存在の正しい法則

如来寿量品と光速度不変との関係 ~わたしという存在の不安について~

        「仮に、価値のある価値があるとすれば、それは、生起するものすべての外側、そのようであるものすべての外側になくてはならない」
(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.41)

 

 

この存在の世界はなぜ生まれ、なぜわたしは生きているのか?なぜあなたがいて、生命はなんのために生まれてきたのか?なぜ宇宙があるのか?生命の目的はなにか?……わたしたちが持つこの窮極の問いのために、法華経序品の弥勒菩薩(マイトレーヤ)のことばを引いてみよう。

彼が放った一条の光は、今や、この世界に幾千の国土を現わし示す。
彼が広大な光を放ったのは、いかなる訳があるのであろうか。
(岩波文庫『法華経』より)

弥勒菩薩のいう「彼」とはサハー世界で仏法を説いている釈迦如来のことだ。釈迦如来はグリドゥラ=クータで三昧に入り、眉間の白毫から一条の叡智の光を放ち、東方(=過去、または無限を意味する)にある一万八千の仏国土を照らし出した。弥勒菩薩の讃嘆と奇異の念に打たれた問いは、この全天に輝き広がる無数の仏国土を目の当たりにして発せられたものだ。

序品ではこのように、如来が語ろうとしている世界の広大さがまず示される。言うまでもなく、わたしたちが住む差し渡し数百億光年ほどのこの宇宙も、ガンジス河の砂の数ほどもある仏国土のひとつから派生する無数の宇宙のうちのひとつだ。わたしたちの住む”この宇宙”は、釈迦如来の叡智の光によってディスクローズされた果てしない”この存在の世界”の中にある、事実上無限個の宇宙のうちの一つに過ぎない。

如来が語ろうとしているのは地球一個の上で生起する出来事だけでなく、人類の科学技術で観測可能な宇宙をはるかに超えた先にある、まったく別の世界を含む存在界全体を説き明かそうとしているわけだ。序品では、法華経がそれら数多の世界の由来を説く法理なのだということが明らかにされる。如来はなぜこれほどの広大な世界をわたしたちの前に示したのか?この膨大な世界はどのようにして生成されているのか?――弥勒菩薩の問いは、問いを発したみずからの生きる意味を問うものでもあろう。

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如来寿量品は方便品とともに「法華経の中で最も大事」と古くから言われており、仏教の世界で長い間重要視されてきた。だが法華経を理解するためには見宝塔品の謎に満ちた暗号のようなメタファを読み解いたうえで妙音菩薩品と重ね合わせ、融通無碍につながる無限の仏国土の全貌をあらかじめ把握しておく必要がある。

むろん、如来寿量品がきわめて重要な章であることは疑いを容れない。如来寿量品は存在の本質に至る高い門であり、いわば法華経の心臓部に当たる。だが如来寿量品の真髄は、従地湧出品と如来神力品を読み直し、その真意を汲み取ることで初めて浮き彫りにされるだろう。そして見宝塔品は法華経の頭脳であり、妙音菩薩品は法華経の骨格に相当する。本稿では、仏教界の昔ながらの法華経の読み方からいったん離れ、新しい観点から如来寿量品の読み方を模索していきたい。

 

如来寿量品は如来のさとりの広大さを語ったものだ。結論から言うと、世間で周知されている「久遠実成」や「大いなる慈悲」「大慈大悲」を説いているという面は確かにあるが、それだけでは足りない。如来寿量品では、実はその広大なさとりの世界は、無生法認の自己認知機能によって仮構された「たとえ話の世界」なのだということが、釈迦如来独特のレトリックで説き明かされているのだった。

「三界は生まれず、死なず、変化せず、生ぜず、流転せず、完成せず、真実でもなければ真実でないものでもなく、存在するものでもなければ存在しないものでもなく、このようなものでもなければ別のものでもなく、偽りでもなければ偽りでないものでもなく、別のものでもなければ、そのようなものでもない、……」(同)

三界――欲界・色界・無色界――を語る名高いこの一節は、無生法認の在りよう(本来生じていないものについて”在りよう”と表現するのもなんだが)を端的に示している。釈迦は、如来は凡夫と違って三界をありのままに見て、見誤ることはないと説く。如来がものごとを「実に如実に見る」この能力は、観自在力すなわち「観音」、音を見る力によるものだ。音を見るとは「妙音」を見るということであって、西方の「観音」が東方の「妙音」すなわち無限を誤ることなく見渡す視点であることをも示す。

光速を超過してはならないという相対論的タイム-スペースの制約下にある地球人のような生命体は、目の前に普通に拡がっているはずの無限を認識することができない。わたしもまた地球人であり、常に生老病死におびえ、肉体の死を迎えた後も、次はどの境涯に生まれ変わるか分からない低層輪廻の束縛を受けている。ロシアンルーレットのように、いわば、わたしはいつも”存在することの不安”に苛まれている。冒頭でご紹介したように、如来が放つ叡智の光は存在界全体を照らした(この光は明らかにE=MC²を無視している)が、わたしにはそのような叡智、つまり如来のようにすべてを見渡す視点が備わってはいない。

「如来が三界を見るのは、愚かな衆が見るのとは異なるのだ。」(同)

けだし愚かなわたしたちの抱く不安や恐怖は知の貧困、叡智の欠如に由来するのであろう。わたしたちは光速より遅い世界、ペンローズ図の内側の世界にいて、その世界の外側に出ることもできないし、世界を外側から観測してその全容を確かめることもできない。時空に肉体を持って生まれたわたしという存在の不安は、わたしが光速よりもいつでもどこでも遅いことに起因している。無明。この存在の不安を取り除くには、アインシュタイン理論を超える一条の光、如来の叡智が必要となる。

 

如来寿量品における釈迦は、菩薩の大集団に三界を超越した如来のさとりの広大さを説明するにあたり、化城喩品の冒頭で比丘たちに説いた「原子の塵を東の方に向かって一個ずつ置いていく男」と同じ喩え話を使っている。序品と同様ここでもまた、なんでも知りたがり聴きたがるマイトレーヤが菩薩の集団の中にいて、彼はほかの菩薩たちとともにお釈迦様に声をあげるのであった。

「世尊よ、それらの世界は数えきれず、計算できず、思惟の及ぶ範囲を超えています」(中公文庫『法華経』)

あらゆる物理法則が崩壊する特異点について2,500年前の僧侶が語っているのがこのシーンだ。大菩薩団のこの指摘に対し釈迦は「如来のさとりはシンギュラリティを超えたところから始まっている」と答えている。光速度不変の時空の制約下にあるわたしたちは、いま体験しているこの宇宙の外に出ることができない。わたしたちは、例の男が原子を置いていったたくさんの世界の様子を描像として思い浮かべることはできるけれど、実際に何個の原子が置かれたのかを数える位置に立つことができない。だが、男が東に向かって原子を置いた膨大な世界の量を計測するために、過去から未来へ流れる一本の時系列にそれらを”劫”として並べていけば、ものすごく(というよりも、数え終えるまでに無限の)時間はかかるが数えることは可能になる。

こうして、男が置いた原子の数量は一個の受肉した如来の寿命としてカウントされたのだった。久遠実成。巷の仏教関係者たちが「お釈迦様の寿命は永遠」としているのは、理由がないことではない。

だが前述のように、釈迦の視点は無生法認の視点であり、三界を超越した立ち位置にある。現に釈迦は「いまもなお、私の過去の菩薩としての修行は完成されていない」と明かしている。サハー世界にいる我々凡夫と違って時空の制約を受けない釈迦の精神の中では、時系列的には過去に起きた出来事も同時進行するかのように継続している。それどころか始まりと終わりが同じ一点で成立してしまう(授学無学人記品「同じ刹那、同じ瞬間、同じ時刻に、集会の同一の時刻に、十方のそれぞれ異なった世界にある各自の仏陀の国土において」。如来神力品にも無限の如来たちが同じ瞬間に咳払いと指弾きをするシーンがある)ため、始まりと終わりが果てしなく続く無限因果連鎖の状態になる。そこでは過去・現在・未来のすべてが一挙に出現し、ヴェーダの文明サイクル”誕生―維持―消滅”が一瞬のあいだに終わることなく繰り返される。如来が窮極の教えを説いた瞬間、虚空会に無限の未来仏たちが大挙して来集するのはこのためだ(見宝塔品)。

如来寿量品が「原子の塵を置く男」の比喩によって説き明かした”無限”の意味、”寿量”の意味はこれだ。如来が<いま>、教えを説いている場所はどこか。それは三界を超越した場所、つまりそれは存在界の外側であり、宇宙開闢前のなにもない真空にほかならない。そこでは「同じ刹那、同じ瞬間、同じ時刻」に、無限が無限の数だけ無限に繰り返されている。わたしがこれを書いている今も、あなたがこれを読んでいる今も、その刹那ごとに無限が生じている。今も釈迦如来は<いま>というそこにいて微動だにしない。

「そして、他の幾千万の寝床があろうと、
余はこのグリドゥラ=クータから動きはしないのだ。」(岩波版)

これが如来寿量品が説く「無限」の意味だ。無限から無限が無限回生まれるという、数学や理論物理学にまじめに取り組んでいる人たちから見たらクレイジーとしか言いようのない世界だが、「数えきれず、計算できず、思惟の及ぶ範囲を超えてい」るとは、このような世界を意味するであろう。むろん、従来の解釈どおりに、釈迦如来のさとりの量を単純に年齢に置き換えて「お釈迦様の寿命は永遠」と考えたいという人々の思いを否定するつもりはない。じっさい、如来寿量品は<無限>の意味を”一個の受肉した如来が持つ永遠の寿命”に<喩えて>説明しているのだから。

「余は巧妙な手段を用いて教えを説く現実の手段をつくりだしたのだ。」(同)

こうしてわたしたちは、この世界が実は無生法認によって仮構された「たとえ話の世界」、つまり方便のためにつくりだされた”仮想世界”だったというもうひとつの重大なアジェンダに到達した。だがこの話はまた次の機会に譲ろう。

 

【参考】
岩波文庫『法華経』
中公文庫『大乗仏典 法華経』
YouTube「人間を越えた人のためのチャンネル」より
如来から如来への懇願!第15章 如来寿量品 解説 融通無碍の世界から集まりし我が如来達よ!存在とは何もない、私の教えすら存在しない、しかしそれでも弟子をとり教えを授け受記を完遂したまえ!

 

 

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