授記とビッグバン、終わりと始まり「オレの法華経をよろしく」②

存在の正しい法則

 

 

転がり続ける俺の生きざまを
時には無様なかっこで支えてる
尾崎豊

 

ネタバレとは、作品(小説、劇、テレビ番組、
映画、漫画、ゲームなど)の内容のうちの、
物語上の仕掛けや結末といった重要な部分を
暴露してしまうこと。またはその情報のこと。
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 申すまでもなくふだんわたしたちは時空=タイム-スペースの中で生活している。あらゆる物事が時間の流れに沿って、いろいろな手順や段取りを通して(=方便 way to do の意。参考「法華経の方便と発心」*1)、空間の中に時系列で現実化していく世界だ。その当たり前の感覚からすると、これまでご説明してきた話はちょっと想像しがたいものがある。しかし時空の制約を受けない虚空会ではこれが通常運転だ。逆に虚空会で起きているさまざまな驚異的(こっちから見たらの話だが)な出来事を時系列的に表現すると、いまこの3次元でわたしたちが読んでいる法華経のような――とりわけ見宝塔品や従地涌出品さらには如来神力品のような――謎のメタファのかたまりで構成された、意味を取るのがきわめて困難な物語が出来上がってくる。
 ひとつ間違えれば法華経は「なにを言おうとしているのか、さっぱりわけのわからない経典だ」という扱いで終わってしまった可能性すらある。現にいま「なにを言おうとしているのかさっぱりわからない」と評する人も多い。だがより多くの人々に法華経は受け入れられ、引き継がれ、多くの支持者らによって、21世紀の最末法のこの時代まで読み継がれてきた。これはわたしたちにとっての幸せだろう。
 二千五百年前のぶっ飛んだ教えがこんにちまで継承されてきたことはある意味で驚異だ。像法から末法にいたる苛烈な時代の中で経典の維持を担った地涌の菩薩たちに敬意を表したい。だがしかしそもそもこんな奇想天外な教えの真意を精確に汲み取り、融通無碍であると同時に堅固な有機的ものがたり構造を設計し、人の琴線を振るわせる絶妙の筆をものしたのは誰なのか。真実を語る言葉は必ず人の心をひくという。そして法華経がここまで大切に読み継がれ、人々に大事にされ、敬慕と尊崇を集めたのには、そうした言葉(=ヨハネ福音書的な意味での)の真実と同時に、それを語るもののパッションと、たとえようもない語り口の魅力が大きく寄与しているのではないだろうか。釈迦についてはいうまでもない。同時に、筆者は法華経を編さんした人もまた超人に違いないと思っている。

 さて、お釈迦様の虚空会には、ほかの世界で教えを説いていた無数の如来たちが招かれている。その如来に随伴してきた侍者らが、釈迦如来の弁舌を尽くしたパワーあふれる「滅後の弘経要請」にほだされ、従地涌出品冒頭で「もし世尊がおゆるしくださるならば」と弘経の誓いを立てるや、

止善男子。
(岩波文庫『妙法蓮華経』従地涌出品第十五より)

 巷間で人気を集めた「止みね、善男子。(やみね、ぜんなんし)」の名台詞とともに、彼らは釈迦如来による意外な謝絶に遭遇する。その途端、物質界が崩壊し始め、サハー世界の一部に亀裂が走った。そしてその裂け目から、次の式によってあらわされる数の大菩薩団「地涌の菩薩」が大挙、湧出してきたのであった。

  (地涌の菩薩数)=(ガンジス河の砂の数)× 60

 釈迦如来直参のエリートである地涌の菩薩たちは、他世界から来た八恒河沙ほどの侍者たちの7.5倍の多勢で押し寄せてきた。しかもみんな金色に輝くイケメンだったため、たったの八恒河沙しかいない侍者たちは圧倒されてしまったようだ。同じ情景を見ていたマイトレーヤも侍者たちと一緒に圧倒されていて、この後に出てくるガーターを読んでいると、ぼうぜんと口をあけて見とれているアジタの様子がありありと浮かんでくる。
 この驚くべき光景に打たれた侍者たちは、自分の如来にこう尋ねた。

……尊きシャーキヤ=ムニ如来の分身としてつくられて他の諸世界において人々に教えを説いていた如来たちは、幾千万憶という他の諸世界から尊きシャーキヤ=ムニ如来の周辺に集まってきて、八方にある宝樹の根元にある壮麗な宝玉の獅子座に坐り、足を組んで安座していた。これらの如来たちのひとりひとりに随伴する者たちも、求法者の大集団が一面に大地の割れ目から躍り出て、虚空界に拡がったのを見て、不思議に思い、かれらがそれぞれに随伴する如来に、このように語った。
「世尊よ、数えることも測ることもできないほどの数の求法者たちは何処から来られたのですか。」
(同『法華経』従地涌出品より)

 訊かれた如来はまさか「あれは昔のオレさ」とほんとうのことを言うわけにもいくまい。自分のカッコいいところを弟子に自慢したい気持ちはわかるが、それをやるとネタバレになる。
 だが、考えてみよう。来集した如来数は事実上無限であるから、言いたくてムズムズしてる如来がそこには必ずいると推定される。そして如来数が無限である以上、我慢できなくてバラしてしまった如来もそこには必ず存在するであろう。
 そしてそのネタバラシさえも、”偽りのない如来の巧みな方便”として許容されるのだ。なんとなれば、この件に関してはネタバラシしたほうが教えの意味をよりスムーズにわかってくれる、そんな性向を持つ衆生たちによって構成された世界が、無限の仏国土の中には必ずあるからだ。

 お気付きかと思うが、すでにこの地球上で読まれている法華経の中にも、ネタバレ案件が存在する。如来寿量品だ。本来なら経文の目次に「妙法蓮華経如来寿量品第十六(ネタバレ注意)」とでも表記しておくべきなのか。だがこれもまた、わたしたち地球人のものの考え方や感性の性向を吟味したうえで、そのほうが地球の衆生を導くのによい道であるという釈迦如来の知見に基づいてネタバラシに踏み切ったと見るべきである。

我亦為世父 救諸苦患者

為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生憍恣心
放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道
随応所可度 為説種種法

毎自作是念 以何令衆生
得入無上道 速成就仏身

 

我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり

凡夫の顛倒せるを為て 実には在れども而も滅すと言う
常に我を見るを以ての故に 而も憍恣の心を生じ
放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん
我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って
度すべき所に随って 為に種々の法を説く

毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして
無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと

  (広済寺ホームページからお借りしました。)*2

 こういうのを読んでグッとくるタイプが地球には多いということをお釈迦様は知っていた。それを踏まえてのネタバラシであったことは、多くの仏教関係者らも首肯せざるを得ないであろう。こうしたもろもろの、地球人が好きそうなたとえ話や言い回しを駆使した「巧妙な手段」によって、釈迦滅後二千五百年の長きにわたり、釈迦が語った言葉を朽ちさせることなく巷間にひろめ、維持することができた。そして今この時代においても図書館や書店で気がねなく法華経にアクセスできる環境が整備されている。

 地涌の菩薩たちは、だからこそ、崇高な使命を果たしたのだと筆者は思う。わたしたちが”幸せ”の意味を知る時が来たのだ。今もなお地涌の菩薩たちは地の下で泥んこにまみれても、ぶざまな恰好になっても、気高い心持ちを強く持ってわたしたちを支えているだろう。従地涌出品を読むということは、地涌の菩薩たちの強い心の波動と響きあうことだ。

 

 

【参考】
岩波文庫『法華経』1964年
*1 「法華経の方便と発心」田上太秀
*2 広済寺「妙法蓮華経如来寿量品第十六」

YouTube
「KoJi,s DeepMax」より
法華経大講話2 第14章従地湧出品 釈迦は見せる仏であなたは見る仏!無生法忍の意味! 2019/08/24

「人間を越えた人のためのチャンネル」より
ちょっと意地悪なお釈迦様! 2020/07/04

「『法華経・日蓮聖人の教えに学ぶ』 寶泉寺 (ほうせんじ)チャンネル」 より
第193回 従地涌出品 2020/11/22

 

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