解脱する四次元生命体と沈黙する菩薩たち◇LGBTQ龍王娘◆

法華経 提婆達多品 龍女成仏 サーガラ龍王の娘 無垢の世界存在の正しい法則

 

子どもだなんて思ったら
大間違いよ、
女の子!
神崎メグ

 

 法華経、提婆達多品の後半に出てくるサーガラ龍王の娘が如来になるエピソード。四次元生命体である龍王の娘が高速解脱する場面だ。龍のような獣も如来になることができる――この挿話が伝えるのは、まず、法華経が人間だけではなく、生きとし生けるものすべてが如来になることを説く経典である、ということだ。ヴェーダの神獣をも成仏させる法華経のパワー。次に、古代インド社会に対するアンチテーゼとしてジェンダーフリーを訴えている。LGBTQ法華経、LGBTQ龍王娘。さらにもうひとつ、八歳でも如来になれる。
 世間の仏教関係者の間では「女人成仏」あるいは「変成男子」などと解釈されているようだが、甘い。ふだん長老と呼ばれているシャーリプトラはこのシーンでは悪役に回されていて「女身垢穢。」とか「又女人身。猶有五障。」とか、令和のコンプライアンスで行くと一発レッドの問題発言をかましている。シャーリプトラは維摩の家に行ったときに天女に因縁をつけて逆にからかわれたことがある(*1)。それにもこりず、サーガラ龍王の娘にも「婦女子が六波羅蜜を完成させたとしても仏にはなれない」などと自説を曲げず、頑なだ。そもそもなんでこうなったのか。

 話の発端はこうだ。シャーリプトラが口を出す前にもう一人、多宝如来の仏国土からお釈迦様の虚空会に参加していた智積菩薩という求法者がいて、この人が「世尊~、もう早く帰りましょうよ~」とか言いながら登場してきて、お釈迦様に「まあまあ、もうちょっといなさいよ」と呼び止められ、「マンジュシュリーと話でもして、法華経についてもっと学びなさいよ」とさとされた。ちょうどそこに海の中で教えを弘めていたマンジュシュリーが帰ってきたので、智積菩薩はマンジュシュリーに声をかけ、話し込んでいた。
 話題に上ったのが、利発で、感性もすぐれ、スタイル抜群、品行方正、みんなに愛を注ぎ、みんなから愛される八歳の完全無欠女子、サーガラ龍王の娘のことなのだった。智積菩薩という人もシャーリプトラなみに頭が固い昭和的思考の持ち主のようで、マンジュシュリーの話を聴いて「いやいや、一瞬でさとったとかないでしょ」と、「お釈迦様だって三千大千世界のすべてで身を惜しまずに修行して、それでやっと如来になったわけじゃないですかー」こんなふうに言い返している。
 智積菩薩とシャーリプトラ、この二人の発言をまとめてみよう。

▽智積菩薩:「果てしない菩薩行ののちにやっと如来になれるんです。八歳とか一瞬とか、そんなので如来にはなれません!」 ⇒ 【年功序列の考え方】【エイジハラスメント】【先輩菩薩のパワーハラスメント】【すぐ帰りたがる】
▽シャーリプトラ:「女の身で幾百劫・幾千劫の修行をしても如来はムリ。婦女子は今まで神々の地位にも求法者の地位にも到達したことがない」 ⇒ 【ジェンダーハラスメント】【エイジハラスメント】【先輩菩薩のパワーハラスメント】【「前例がない」=前例踏襲の悪習慣】【女人五障に拘泥】【権威主義】

 もういちど言おう。世間の仏教関係者の間では「女人成仏」あるいは「変成男子」などと言われているようだが、甘い。龍王娘の超速解脱物語は、こうしたシャーリプトラらに代表される守旧派が拠る”岩盤規制”を打通することを目的として、敢えて提婆達多「悪人成仏物語」の直後に配置されたエピソードなのだと筆者は主張したい。「女人成仏」、たしかにそうだ。たしかにそのことが書かれている。たしかに、法華経を説き広めるのは、性の区別など関係なく、すべての生きとし生けるものを解脱させ、この上なく完全なさとりに到達させることが目的だ。
 そのために法華経が目指したのは、当時の人の世の「大そうじ」ではなかったか、というのが筆者の考えだ。制度的障碍や差別の克服を個々人の努力にゆだねるのではなく、障碍や差別を生んでいる社会を構成する人々の”心の改革”を通して少しでも多くの衆生を法華経の法門に迎え入れ、その中で「一切衆生悉皆成仏」を達成すること――そのチャレンジとは、人々をさとりから遠ざけているさまざまな悪しき因襲の超克を目指すものでもあった。それだけに既存の権益にしがみつく社会からの反発も大きかっただろうし、同時に、旧弊による制度的な閉塞感に苦しんでいた人々からは大きな期待と希望をもって迎えられたと思われる。
 法華経編さん当時の仏教界は小乗教団と大乗教団がいがみ合っていた。上座部とりわけ説一切有部は一種のペダンティズムで、政治権力機構と癒着し、布施を運用するなどして得た潤沢な資金を使って大きな神殿を構えた。その奥深い内部にある薄暗い一室で、形而上的幻想にとりつかれたごく一部の位の高い坊主たちが集まって議論を繰り返し、頑迷なドグマを構築していった。のちのスコラ学あるいはユダヤ王国末期のファリサイ派もかくやと思わせるほどの煩雑な解釈を仏法にほどこし、古代インド仏教界の最大勢力として隆盛を誇った。
 大乗から出た法華経がこれら既得権益集団とかなり軋轢があったことは、法師品の描写にもうかがえる。法華経がやろうとした「大そうじ」の対象には、仏教界の守旧派も含まれていたであろう。

 肉体を持ったガウタマ・シッダールタ、お釈迦様が生きた時代も事情は変わらなかった。上座部系のかわりに堕落したバラモンやヴェーダの世俗的風習などの昔ながらの因襲があっただけだ。お釈迦様が説いた教えは、バラモン教の旧態依然のカーストにしばられていた当時のインド社会に新風を巻き起こした。無上道に入るのに性差、年齢、身分など関係ないではないか――古き悪しき因襲に辟易していた人々は、お釈迦様の教えを諸手で歓迎した。お釈迦様が説く目の覚めるような涼やかな教え。口から流れるみずみずしい言葉たち。ヒマラヤに吹きつけていた暑苦しい湿ったモンスーンが、颯爽とした新しい教えの風に取って代わった。

 世の空気を刷新するかのようなお釈迦様の教えは、釈迦入滅五百年後に地上に現れた救世主イエスの教えさながら、世に清らかな風を送った。それはひとことで言えば、”なにものにもとらわれない教え”だ。古き悪習にとらわれることなくサクッと脱ぎ捨てる。よい習慣であれば拘ることなくスッと取り入れ、仲間にしていく。なにものにもとらわれない教えは多くの人の心をとらえた。清浄で融通無碍な人々の学びの輪は、古代インド社会にあっという間に広がった。
 お釈迦様が語った数々の清浄な言葉たちは、夕陽のガンジス河の水面を黄金色に変えながら、ゆらゆらと彼岸に流れて行った。大河のほとりで説かれた悠久の教えに、人々は耳を傾ける――その様子は、イエスキリストが愛と祝福をこめて人々に語った山上の垂訓をわたしに思い起こさせる。聴く人の魂にとどく言葉。ナザレびとイエスのうたうような澄んだ教えの響きが、あの日、春のガリラヤの野を渡ったように。

 

さて、

 

 龍王娘の物語の顛末は法華経提婆達多品をお読みいただきたい。旧態依然の守旧派の目の前で、龍王娘は秒で解脱して見せる。「ご希望の方にはお付けいたします(^^♪」と、オプションで着脱可能(と思う)の男性器までつけて……もはや方便としての一物なのか……。法華経全体を通して、ここまでスカッとする挿話があったろうか。龍王娘のあざやかな成仏姿を見た三千人が解脱し、真空になって無生法忍を得、如来から授記を受けた。
 シャーリプトラも智積菩薩もこうしたさまを見て沈黙した。もともと二人とも智慧のある人なので、もうこれでさすがに古い考えは脱ぎ捨てて、シュっとして立派ないでたちの如来になった龍王娘を受け入れたようだ。お経に用いる漢訳や宮沢賢治『國譯妙法蓮華経』などで読むと、最後の「黙然信受。」「黙然として信受す。」の響きには、イヤイヤ受け入れているという感じはあまりしない。言葉からは、むしろ少し軽やかでポジティブなエネルギーを感じる。
 また、このエピソードが伝えようとするもののうちの重大なひとつは、菩薩行を長年やっているベテランが、昔の海軍でいう「新品少尉」のような、ニューフェイス菩薩、ピッカピカの新発意が入ってきたとき、それもパキッとした優秀なのが入ってきたときに、自分たちの地位を脅かされるかも、と危惧して新人の頭を抑え込んだり、マウントを取ってきたりする、そういう地球人のイヤな性癖も描いているように思うが、如何。

 さらにジェンダーの問題についてもう一言いうと、そもそも次元上昇していくとだんだん性差がなくなってくるわけで、たとえば7次元付近にいるとされている天界天使たちには性別がないし、その上にいるメタトロンやセラフィム、ミカエル、ラファエルら大天使にも性別はない。8~9次元でたゆたう菩薩にも、同じく性の差はないであろう。説一切有部あたりが主張してそうな「菩薩とは良家の男子でなければならず云々」などの無意味なしばりなど、天界や菩薩界にはもともとない。
 ヨーロッパの昔の絵画などを見ていると、むしろ天使たちはどちらかといったら女性に振りぎみに描かれることが多い。剣を手にした武人的役割を果たすミカエル系の天使(ヤマトタケル尊もその系譜に入るかと思われる)は別として、天使やもろもろの菩薩たち一般の持つエネルギーは、3次元に住む地球人の感性では、より強く女性的に感じられるのかもしれない。高次元にいる人たちには余計な我もないし、3次元的な変な執着も取れているから、基本みんなやさしいのだと、筆者は聞いた。

 そして最後に「龍女成仏」という観点について。サーガラ龍王といえば天龍八部衆に属し、広目天の配下にあって仏法の守護者である(*2)。つまり欲界の「四大王衆天」にいる四次元の生命体だ。龍王娘は龍の世界でもエリートになる。智積菩薩の問いに答えて龍女のなりを伝えるマンジュシュリーの言葉からは、彼女の高貴で愛情ぶかい性格とともにたいへんな才女ぶり、そして高い霊格が感じられる。
 ところで、ある小論(*3)によれば龍女とは「伝統的な仏教の観点から見れば、畜生という悪趣に生まれた愚者」なのであり、蔑みの対象であったという。つまり彼女は四次元に棲む人間ならざるものなのだと……なんとここでも、さとりを求める一個の魂はチャレンジングな状況に置かれていた。でも彼女はひるむことなく菩提へと向かう。そして人間でない生命体でさえも如来になれることを実証して見せる。

 さて、そのとき、サーガラ竜王の娘は、ひとつの宝珠をもっていた。その値段は三千大千世界の価値に相当した。サーガラ竜王の娘はこの宝珠を世尊に献上した。世尊は彼女の心根をめでて、それを嘉納した。
 (岩波文庫『法華経』提婆達多品より)

 龍女の純粋な心(=宝珠)がお釈迦様にとどいた。お釈迦様が龍女の宝珠を嘉納することで、彼女のけがれないやさしさが一瞬のうちに世界に開花した。無垢の世界には正しい教えの輝きをさえぎるものがない。そこにいて龍女の教えを聴いたすべての生命はいっさんにさとりを開いた。無垢の世界はあっという間に六種に震え、皆が見守るなか、龍女如来が主宰する虚空会が早くも開かれているのであった。

 

(*1) 「ひとり ZEN 寺」
(*2)八大竜王/八大龍王とは|祀られる神社や仏教世界での意味・ご真言を解説
(*3)『法華経提婆達多品「変成男子」の菩薩観』白 景皓(東洋文化研究所所報第20号 平成28年4月)

 

【参考】
岩波文庫『法華経』1964年
中央公論社『大乗仏典5 法華経Ⅱ』2002年
『國譯 妙法蓮華経』宮沢賢治 1933年
岩波文庫『尼僧の告白 テーリーガーター』中村 元訳 1982年
『法華経とは何か-その思想と背景』 (中公新書) 新書 – 2020/11/20 植木雅俊
『法華経を読む』(講談社学術文庫) 文庫 – 1994/2/4 鎌田茂雄

 

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