『幻想の城』① ~法華経「化城喩品」量子的宇宙の描像~

存在の正しい法則

 

 

われ深き淵より汝を呼べり
旧約聖書 詩篇130:1

 

 仏典とりわけ法華経を読み解くには相対論・量子論の知識が必要だとされている。現代科学の宇宙的観点から法華経をどう解明していくか。本稿では法華経、化城喩品の中に現われるいくつかの謎めいた比喩について考えていきたい。如来寿量品の冒頭にも現れる「東の方角に向かって原子の塵を一つずつ置いていく男」のたとえにはじまり、「美しい玩具を持つ十六人の王子」、「苦しみに包まれた暗黒の裂け目」とその中に生まれたものたちの覚醒、「輝きが生じた場所と正反対の方位に向かうマハー=ブラフマンたち」、対称性の世界、ウドゥンバラの花、そして化城の喩え。

 imaginary castle, visionary castle, castle of illusion, …幻想の城。それに魅せられたものは何を現前させるのか……いま、世界で起きていることもそれだ。わたしたちはすべからく〝たとえば〟という城の中に生きるイマジナリーな存在ではないだろうか。

 本ブログでは種々の聖典について言及するが、それらはいっさいの教義に対する解釈ではなく、叙事詩や物語としての吟味であるということを申し添えておきたい。

〝中間の世界〟はブラックホールの比喩なのか?

 大通智勝如来がこの上なく完全な「さとり」に達したときのことを、釈迦如来は次のように僧たちに話している。

 さらにまた、比丘たちよ、かの正しいさとりを得た尊敬さるべき世尊の大通智勝如来が、この上ない正しい菩提をさとられているそのときに、十方のそれぞれの方角にある五百万・コーティ・ナユタもの世界は六種に震動し、巨大な光明に輝かされたのである。さらに、それらすべての世界のあいだには〝中間の世界〟があり、それらは悲惨な境遇であり、(苦に)おおわれた深い暗黒(の世界)であって、……(『法華経』化城喩品。中公文庫より)

 このシーンは釈迦如来が序品において無量義処の三昧に入ったのちに眉間から光明を放った場面と似ているが、問題はここに描かれている暗黒に包まれた〝中間の世界〟の意味だ。序品と比較してあえて「中間の世界」を強調した意味はなんなのか。
 仏教研究家の植木雅俊氏はこの「中間の世界」を「ブラックホールの概念に非常に近い」と指摘している(『法華経とは何か』中公新書、2020年)。植木氏が言うように、化城喩品の次のような描写はいかにもブラックホールを彷彿とさせるものがある。

……光によって光をもたらすに足らず、(その)光彩によって光彩をもたらすに足らず、その輝きによって輝きをもたらすには足らない…… (『法華経』化城喩品。中公文庫より)

 チャンドラセカール限界を超える質量を持った星が崩壊すると密度無限大の状態になる。膨大な重力は原子核の中ではたらく斥力をも上回り、すべてを一点に押し込める。時空をねじ曲げ、直進する光の経路を歪ませ、光さえも脱出できないほどの深淵が時空の中に生まれる。ブラックホールだ。
 アインシュタイン宇宙では質量ゼロの物質(=光子)の移動速度が最大で、これより速いものはない。光が脱出できないということは、あらゆるものがそこから脱出できないことを意味する。ブラックホールと時空との境目のところは事象の地平面と呼ばれ、そこから先に入ってしまったらもう戻ってこれない。植木氏は、ブラックホールのこの「重力のために光が脱出しようとしても抜け出せない」感じが、上記引用文「光によって光をもたらすに足らず、」云々の描写とよく似ている、と考えているのかもしれない。では「ブラックホールの概念」についてもう少し考えてみよう。

「原子を一個ずつ置く男」特異点と無限、そして如来寿量品との関連性

 時空にぽっかりと空いたブラックホールの中には密度無限大、重力無限大、時空の湾曲率無限大の「特異点」があって、そこではあらゆる物理法則が崩壊し、意味を失う。数式では無限大を扱うことができないからだ。
 如来寿量品の中で弥勒菩薩がこの特異点について言及している(拙稿「如来寿量品と光速度不変との関係 ~わたしという存在の不安について~ 」をご参照ください)が、同じように化城喩品でも「原子を一個ずつ置く男」の比喩が出てくる。釈迦如来は「優れた数学者なら解明できるだろう」と前置きしたうえで「が、しかし」と、次のように語っている。

けれども、およそ、かの世尊の大通智勝如来が完全な涅槃にはいられてから経過したほどの劫、それら幾百・千・コーティ・ナユタもの劫については、計算を用いてもその限界に達することはできない。その時間はかくも長く、このように思議を絶し、このように数量を超えているのである。(同)

 如来の言葉を借りれば、特異点には計算を用いても達することができない、つまりそこには人間の知性は及ばないのだ、ということもできるだろう。釈迦如来は序品で叡智の光明を放ち、全創造世界を顕現した。大通智勝如来の「巨大な光明」もまた、同じ一切知者の叡智の光明ではなかったろうか。人間の知性の及ばないブラックホールのような「無明」の領域を、如来の叡智の輝きで照らし出したのだ、と考えれば、植木ブラックホール仮説はかなり説得力のある考えのように見える。
 ただ、重力と特異点、あるいは無限との関係や、この無限が如来寿量品の無限と繋がっていることについて、植木氏は特に言及していない。同じ「原子を一個ずつ置く男」のたとえ話でリンクされているふたつの章だが、それぞれの章で語られる無限がお互いにどう関連しているかという重大な問題について、植木氏の考察がないのは不自然だ。氏は前掲著作の中で、釈迦如来の無限と大通智勝如来の無限を、単純に「どちらの量が多いか」という基準で比較しているに過ぎない。これでは無限の意味をただ「めちゃくちゃ長い」とだけ考えていることになってしまう。
 だが化城喩品、如来寿量品で語られる無限には、さまざまな意味あいが含まれているように感じられる。ここで現代物理学者の知恵を借りよう。

ホーキング「崩壊していく星の表面にいる勇敢な宇宙飛行士」のたとえ

 スティーヴン・ホーキングは『ホーキング、宇宙を語る』の中で「崩壊していく星の表面にいる勇敢な宇宙飛行士」のたとえを用いて、時空と重力と特異点、そして無限との関係について簡潔に説明している(そのたとえ話の分かりやすさはお釈迦様のそれに匹敵すると言っても過言ではない!)。この話の場面設定はSF映画『インターステラー』とよく似ている。

 ホーキング博士のたとえはこうだ。「星が崩壊してブラックホールを形づくるのを観察する」ために、ある勇敢な宇宙飛行士が重力崩壊の途上にある星の上に降り立ち、星のまわりを周回する母船に、彼の持っている時計で一秒ごとにシグナルを送る、という設定だ。
 宇宙飛行士の時計で11時00分00秒には星は臨界半径以下に収縮してブラックホール化する。この状況下で何が起きるのか。ホーキングはこう説明する「11時00分が近づくにつれて宇宙船内で監視している仲間たちは、宇宙飛行士から送られてくる信号の間隔がしだいに長くなるのに気づく」。そして驚くべき状況があらわれる。

10時59分58秒に宇宙飛行士が出した信号を受けてから、10時59分59秒に出した信号がとどくまでは、1秒よりもほんのわずか長い時間待つだけですむ。しかし、11時00分の信号を受けようとすれば、永久に待っていなくてはならないだろう。(『ホーキング、宇宙を語る』より)

 ホーキングは続いて「宇宙飛行士の時計で10時59分59秒と11時00分の間に星の表面から放射された光波は、宇宙船から見れば、無限大の時間にまたがって拡がっているのである」と述べる。一秒の間に無限の時間が過ぎ去っているというのだ。

 察しのいい読者の皆さんは、ホーキングの言う「無限大の時間」が、如来寿量品で釈迦如来が菩薩大士たちに「お前たちに真実を分からせてあげよう」と呼びかけて説き明かした如来の「量り知れぬ寿命の長さ」と同質のものであると、筆者が言いたいことに気づいてくださるのではないか。いや、釈迦如来がどのような意図で如来寿量品を説いたのか、筆者にはまだ分からない。勇敢な宇宙飛行士がどのようなシグナルを母船に送ったのかを知るためには1秒の間に無限大の時間を過ごす必要がある。つまりこの時空という世界の中では永遠にそれを知ることはできない。この世界はそういう仕組みになっている。

 如来にとっての無限、というときの無限の意味がただ「寿命が長い」というだけではないのは確かだ。無限を超え、無限から離れている存在だからこそ、無限を説くことができる。地球の1Gの重力の下で無限や無について絵空事を言っているわたしとはわけが違う。今わたしが考えている無や無限や空は、ほんとうの〝それ〟とは似て非なるものだと思う。では、如来はどのような意図をもって教えを説くのであろうか?――この問いに対してはすでに答えが用意されている。いわく「おのれの如来に聞け」。

 

多世界解釈を導入〝位置が決まっていない猫~並行宇宙~全創造世界〟

 もう少し「中間の世界」について考えてみよう。自分がなぜ生まれて来たのか、何のために生きているのか分からないまま、無明の中で転生輪廻を繰り返している愚かなわたしたちが住んでいるのがこの「中間の世界」だ。前述した植木氏の仮説を借りれば、わたしたちのアホさ加減は底なしのブラックホールなみということになる。
 法華経は多面的、重層的な読解が可能――というよりもそのような読み方を要求される書物――なので、「中間の世界」のことを幽界や冥界のような、スピリチュアルな生命の存在野のようにも読める。目的を知らないままに輪廻の中で生きている魂たちが一切知者(如来のこと)の巨大な叡智の光に照らされ、はじめて魂の意味をさとって覚醒した、とも取れる。
 善でもなく悪でもなく、正しいものでもなければそうでないものでもない。置かれている状況や、精神のレベルに応じてさまざまな受けとめ方ができる。だがそれらのうちどれが真実かを知っているのは一人だけだ。そしてわたしたちひとりひとりが、その一人になるべきではないか。特異点の謎を解明しようとしたあの勇敢な宇宙飛行士のように。

 独特の切り口から仏典を追究している Rico Avalokitesvara さんのブログ『Maitreya’s Seeking 』の「法華経の注釈集 化城喩品(その1) 」に、この「中間の世界」に関する刮目すべき考察がある。リコさんは植木ブラックホール仮説を引用したうえで次のように書いている。

なお、現代科学的に言えば、「中間の世界」とは、まだ位置が決まっていない状態、「シュレディンガーの猫」の無限、「巨大な光明」とは、如来の叡智の拡大によって生み出される世界の中に位置が決まるということ(ハイゼンベルグの不確定性原理)、「互いに見合い、互いに知り合う」とはエバレッタの提唱したような並行宇宙ということになろうか。(上掲ブログより)

 法華経読解に量子論的な多世界解釈を導入し、釈迦如来の微妙な表現のあやを読み落とさず、そこに「位置」「猫」「不確定性原理」「並行宇宙」などの諸要素を明瞭に重ね合わせている。この並行宇宙の「互いに見合い、知り合う」のイメージを拡張すると、大通智勝如来が「巨大な光明」によって説き明かした「十方のそれぞれの方角にある五百万・コーティ・ナユタもの世界」が融通無碍に繋がり合う、全創造世界の姿を描出することができるだろう。

②へつづく

 

【参考】
大乗仏典〈4〉法華経I(中公文庫) 文庫本–2001年12月20日
松涛誠廉、丹治昭義、長尾雅人
ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF) April 15, 1995
スティーヴン・W. ホーキング (著), Stephen W. Hawking (原著), 林 一 (翻訳)

Maitreya’s Seeking ミロクの問い―宇宙誕生の謎に迫る 科学としての新仏教
Rico Avalokitesvara

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