如来第五の教え、法華経第四の光◇地湧の菩薩がまとう神聖なオーラ◇

存在の正しい法則
 いま一度、従地涌出品を読んでいこう。無限の真空に拡がっていく地涌の菩薩たちの様子を法華経はさまざまな姿で描いている。たとえば、
「……これらの求法者たちは、このサハー世界において、大地の下にある中空の境域に住んでいる。……」(岩波文庫『法華経』従地涌出品より)
 これは別に法華経が地球空洞説を支持しているということではなくて、「大地の下」と言うときのような”地下”とか”地中”は、如来や菩薩たちなどの、なにもない真空を見つめる真理探究者の内奥に拡がる思念や想念、精神といったものの喩えだと思われる。地涌の菩薩たちの思念のエネルギーが内的に充ちあふれ、精神を覆っていた殻を破って外にあふれ出た、といったふうに筆者には読める。
 地涌の菩薩出現シーンは実は”法華経第四の光”と言ってもいい箇所だ。釈迦如来の叡智の光が放たれるシーンは通常、序品、見宝塔品、妙音菩薩品の3箇所とされる。この3つは釈迦如来主宰の虚空会の中の同じシーンを、それぞれ異なる角度から表現しているものだ。同じ光景を違う視座で描くことで、<光>の意味をより深く彫り込んで、シチュエーションに立体感と重層性を持たせており、それぞれの<光>のニュアンスの違いを読み取ることでより深い学びにつながる仕組みになっている。<光>とは端的に、如来の精神の中で無限に拡がる融通無碍の世界を顕現するための”存在のエネルギー”のことだ。科学理論が進歩し、観測技術が発達した現代、われわれはこの世界がある種の光から生み出され、今のような姿になったことを知っている。現代のサイエンスはこれを「ビッグバン宇宙論」などと呼んでいて、今も研究が続けられている。
 地涌の菩薩の内面にある思念のエネルギーとは、法華経宣揚の意志を意味する。「法華経を弘めます」という弘経(ぐきょう、と読むようです)の強い意志が物質世界を突き破ってあふれ出てきた、というシーンだ。法華経の漢訳にあたり鳩摩羅什は菩薩が「涌き出てくる」というふうに、液体を連想させる表現を採用している(見宝塔品の多宝塔出現シーンでも「従地涌出」という表現を使っているのが興味深い)。仏典に精通していた鳩摩羅什は、菩薩の弘経のエネルギーが内面で充溢してプラズマ状の高エネルギーのスープになり、黄金色に輝きながら果てしない真空を埋め尽くした、という無限の宇宙が生み出されていく壮大な状況を、彼なりに法華経から感じ取ったのかもしれない。
 法華経を通読して、序品、見宝塔品、妙音菩薩品のそれぞれの叡智の光の意味を読み取った後で、もう一度従地涌出品に戻ってみると、菩薩たちの体躯の黄金の輝きが、3つの「眉間の光」とそれこそ”地続き”になっていることが分かってくる。さらに、眉間の光は釈迦如来から発せられるのに対し、従地涌出品において虚空を埋め尽くす黄金の光は、地涌の菩薩たちから放たれている。マイトレーヤが「偉大な姿」「見る目にうるわしい」と見とれた菩薩たちがまとう美しいオーラは、(釈迦如来が眉間から放ったものと通底する)宇宙開闢をつかさどる”存在のエネルギー”を意味しよう。ここでは、入滅する釈迦如来にかわって法華経宣揚を誓う地涌の菩薩たちが<光>を放っている。
  *  *  *  *  *  *
 地涌の菩薩たち(ほんとうは勇気の「勇」の字が入っている「地湧の菩薩」と書きたいところだけど)のうるわしい姿や、あふれ出る発心と弘経のエネルギーが求法者の精神の内部に根差していることなどを見てきた。世間で流通している仏教では、このあたりは
不染世間法 如蓮華在水
世間の法に染まらざること蓮華の水に在るがごとし
 (岩波文庫『妙法蓮華経』従地涌出品より)
という具合になっている。ドロドロした欲にまみれて毒気に満たされた世間に染まらず、蓮の花のように神聖で気高い姿でサハー世界にすくっと立つ求法者の凛々しい姿――これはこれでひとつの読み方だと筆者は思う。菩薩のそのいでたちは筆者も美しいと思うし、ちょっとあこがれもする。また、映画『男はつらいよ』の主題歌二番の出だし「〽ドブに落ちても根のあるやつは/いつかははちすの花と咲く」はこのへんを唄っているであろう。
 筆者はときどき余興で『ロータスカード』というオラクルカードを引くのだけど、そこに収められている「不染世間法 如蓮華在水」のカードの解説は、大略「生きていればいろいろイヤなことが起こります。自分自身の中に迷いや妬みや怒りなど、ドロドロした思いが涌いてくると思います。そんな自分は見たくないですね。ですがそれを人のせいにしないで、自分から目を背けることなく、自分を直視して自分の弱さを受け入れることができたなら、もうあなたの心は弱くない。強く、美しいのです」としたうえで「泥の中には心を育てる栄養分がたっぷりあるのです。さあ、泥を養分に変えて、蓮の花のようにあなたの美しい花を咲かせましょう」と訴える。読んでいて「確かにそうだ」とは思うし、日常の中でイヤな経験をしたらこれを思い出して立て直そう、という気にはなる。
 何年か前、テレビでかわいいアイドルの子が泥田に入ってレンコンを収穫する様子を撮ったバラエティ番組を見たことがある。手本をしてみせるレンコン農家の人は慣れたもので、サッサッと収穫するのだけど、アイドルの子はそこはどうしてもジタバタと悪戦苦闘になる。素朴に「たいへんだなぁ~こりゃ」と思いながら見ていた。
 蓮は泥に根差して育つという生態を持つ。泥の中から養分を吸収し、水中にセルロース繊維で形成された疎水性の茎を伸ばして、水面に清らかな花を咲かせる。インドでは昔から神聖さの象徴とされていて(Wikipedia「ハス」) 、仏教も当時のインド社会のこの慣習を受け継いでいる。たとえば維摩経では「泥中の蓮」といった具合で、リンク先を読んでいただければお分かりかと思うが、世間ではこのように、仏法はなにかのライフハックみたいな扱いになりがちなのが実情だ。


ところで、
 このコトバンク「泥中の蓮」の解説のところに書かれてある「煩悩にまみれて苦しんでいる人の方が、悟りへの道は近い」という表現は、イエスキリストの山上の垂訓に似たロジックのようにも感じられる。やはり、真実を説く経典同士、いろいろ似通った部分が出てくるのだろう。釈迦如来もイエスキリストもただひとつの真理を、違う環境で、違う歴史と習慣を持つ人々を相手にして、それぞれ異なる言語で説いている。
 だがコトバンクに載っているこの解釈そのものは、実をいうとまだ甘い。マンジュシュリーは分かっていると思うが、世間の人々の解説や解釈は<泥>の持つほんとうの意味を素通りしている感がある。
 ではここで言う<泥>の真実の意味はなんだろうか?維摩経もここでは案外いいことを言っていて(失礼)、この世界になぜ”悪”というものがはびこるのか、その理由を示しているのが<泥>だ。マンジュシュリーは簡潔な比喩で説いていると思う。善だけの世界では正しい教えがなんの妨げもなく一気にひろまってしまって、みんなあっという間に解脱してしまってそこはもうイコール仏国土になってしまう。なので法華経を学ぶためにせっかく3次元世界に転生してきても、学びを深めたり教えを弘めたりする暇がないのだ。ちなみに仏国土は各種仏典を細密に検討すると9次元に相当するようだ。言ってみれば、<泥>という悪がなければ、3次元に転生してきたと思ったらそこはもう9次元に次元上昇している仏国土だった、という事態が起きてしまう、というわけだ。栄えある地涌の菩薩として3次元世界をビッグバンで生み出したはいいが、その世界が生まれたとたんに仏国土になってしまうというアクシデントを防止するために<泥>が用意されている。
それはさておき、
 世間一般の<地涌の菩薩>観はだいたい上記のような「自分の殻を突き破り、大地を蹴って立ち上がり、地に足を付け、強い意志で法華経を弘めよう!」「他の世界から来た人たちに任せないで、自分たちの世界は自分たちの力で善い国にしよう!」的な解釈が基本になっていると思われる。逆に言うと、漢訳で法華経を読む限りどうしてもそういう感じになってしまう、ということだろう。ダウングレード版の教え、下位互換モデルの教え、とでも言おうか。なにもない真空は漢訳に「虚空」の語があるからいいとしても、物質世界の崩壊とかプラズマとかビッグバンとかは、漢訳を読んでいるだけではイメージできない。まったく出て来る幕がない。
 古代の中国にはすぐれた思想家が多くいた。仏法もその中で深く研究されてきたと思う。鳩摩羅什や天台智顗など仏典の探究者たちの真摯な姿勢は疑いようがない。だがそこには解釈の齟齬も生じただろう。学術的な研究の手法において、仏法とはとくに関係のない、古代中国の思想や世界観によって形成された論理空間の枠組みの中だけでの、無意味に閉じられた議論が行われたケースも多いようだ。漢字はすぐれたコミュニケーションツールだ。ただ、漢訳に多く頼って仏法を研究していると、漢訳の論理空間の限界に阻まれて仏法の真髄には到達し切れない状況におちいるだろう。言い換えれば、漢訳に依拠した研究は、仏法そのものの研究から逸脱した、古代中国や日本がどのように仏教を受容したのか、といったような、単なる思想史的な研究に収斂してしまいかねない。
 では、サンスクリットで読めば法華経の奥儀を分かることができるのだろうか?ガウタマ=シッダールタはパーリ語に近いマガダ国の地域的な方言を話していたという。時間とともに流れていくパロールで説かれた教えは、サンスクリット語で経典として記録され、言説化した。われわれに残されたもののうち、釈迦の使った言葉に最も近いのがサンスクリット語ということになる。だがサンスクリット語やパーリ語だけでも足りないのは、見てきたとおりだ。
 お気づきのとおり、法華経を読み解き、その真髄を見極めるためには、釈迦入滅後にヨーロッパ社会で磨かれてきた自然科学を導入する必要がある。漢訳に依拠した法華経解釈はこれまで述べてきたように真実の教えに対する一種の”下位互換”モデルに過ぎない。さとりに達した直後の釈迦が一度は教えを説くのを放棄しようと思ったほどの難解で深遠な仏法の真の意味を知るためには、科学的思考によって構築された科学的な世界観・宇宙観をそこに重ね合わせて読み解くことが求められる。とりわけ現代の最先端の理論物理学による宇宙の描像は法華経解読のための重要な知的アイテムで、その世界像は法華経ときわめて近似した姿を示す。
 こんなことを書いていたら、物理学のエキスパートたちからブーイングが起こっても仕方がないかもしれない。でも考えてみれば、サイエンティストたちのほうがブッディストたちよりも宇宙のことが分かっているのかというと、そうでもないだろう。ちまたにあふれるブッディストもピンきりだが、ピンのほうだったら、サイエンティストよりも”宇宙わかってる感”が大きいのはいうまでもない。どちらかというとブッディスト(ピンに限る)のほうが現状は優勢と筆者は見ている。
 しかし、そうしたちまたのピンのブッディストでさえも法華経のほんとうの意味を知悉していなかったことは、やはりこれまで見てきたとおりだ。釈迦入滅後、アインシュタイン、ニールス・ボーア、シュレディンガー、ハイゼンベルグ、エヴェレット、ホーキング、南部陽一郎……これら綺羅星のような卓越した叡智を産むまでに、人類は二千五百年を要した。いま、「如来の遊戯」に到達するために、われわれはこれら賢人たちの知の力を借りなければならない。だがここにおいても釈迦如来は
賢者たちは失望するなかれ。如来たちの智慧は思考を超越しているのだ。
 (同)
と詠(うた)っている。どうやら相対論や量子論だけではまだまだ足りないようだ。
 
 
 
 
【参考】
岩波文庫『法華経』1964年
『ロータスカード ~法華経の智慧を日常に生かす~』
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教
にほんブログ村

コメント

タイトルとURLをコピーしました