女がひとりもいない世界【ジェンダーとスピリチュアリティ】

存在の正しい法則

 

「わたしは彼女を天の国に導くであろう」
トマス福音書 語録114

 

 

 語録114は続けてこう書いている「私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために」。

「生ける霊」は創世記2:7による。人間の本来的自己を指しており、「霊」にはギリシア語から借用した「プネウマ pneuma」の語が当てられている(*1)。トマス福音書は外典。後世のグノーシス派の思想的影響が強く、本来のイエスの教えからずれているけども、時々いいことが書いてある。

例えば語録22のイエスの言葉から一部。

あなたがたがふたつのものをひとつにするとき、そして、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、そして男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、女性が女性ではないようにするとき、そしてひとつの目の代わりに目を…… (訳文は トマス福音書 からお借りしています)

ジェンダーとスピリチュアリティについて考えてみた。

男が一人もいない世界

  ノーマンズランド no man’s land という言葉がある。意味はこちら。↓

「所有者のいない土地」「無人地帯」「荒地」あるいは「軍事対立の中間の、いずれの勢力によっても統治されていない領域」を意味する英熟語。(Wikipediaより)

第一次世界大戦中に生まれた言葉だという。西部戦線でドイツ軍と英仏軍が長い塹壕を掘ってにらみ合ったが、両軍のこの前線の間にある領域がノーマンズランドの由来かもしれない。

ここに身をさらした兵は、向こう側で機関銃をかまえている敵兵に即座に撃たれる。人生に嫌気がさしたか上官から突撃の命令でもない限り、そこに足を踏み入れる気になる人などいるわけがない。かくして無人地帯が形成される。

 

  ノーマンズランド、男が一人もいない世界。

 

  「男が一人もいない」と聞くと、筆者のように過去世の影響で男性に極端な拒絶反応を抱く者としてはホッとするのだけど、実際問題ほんとに一人もいないとなると、世の中的にはいろいろと不都合になるので困る。

言うまでもないが、そもそもノーマンズランドの“man”はここでは“男”ではなく、男女の性差を持たない単なる“人間”という意味。 man という語は男という意味を兼ねているだけだ。だが逆にこれが「人間一般を代表するものは“男”である」という観念の基になっている。男の方が偉いという世界に。    

阿僧祇世界~神はヒューマノイド型

  多くの研究者によれば聖書にはすでに神話はないのだという(*2)。シュメール時代に神話は終わったということだろうか。

創世記第一章では神は男と女を同時に作り、第二章では最初に「人」を作って、次いでその「人」の肋骨から「女」を作り出したと書いてある。微妙に違う。まず第一章、

神はご自身にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
(創世記1:27 『聖書』新共同訳。以下同)

わたしたちを作ってくれた神はヒューマノイド型だということが説明されている。仏教では阿僧祇世界といって、端的に言うとそれは多世界解釈のことなのだけれど、お釈迦様によれば各並行宇宙にはいろんなタイプの生命体が生きている(*3)。

たまご型の知的生命体が生きているパラレルワールドでは、神はたまご型になっているはずだ。猫型生命体の場合においてはもちろん神は猫の形をしており、神がオドラデクの形をしている場合、その世界の聖書には、神はご自身にかたどって人をオドラデクの形に創造したと書かれているだろう。  

 

生ける霊とはプネウマ、命の息。インド思想のアートマに相当

  次に第二章。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)

男や女というより単に「人」を作ったと書いてある。アダマが「地面」とか「土」という意味で、その土の塵で作ったので語呂合わせでアダム、ということらしい(*4)。この時点ではアダムは固有名詞の誰かの名前というよりも、普通名詞の「人」という意味で、「人間」一般を指していた。

また、冒頭で触れた「生ける霊」=プネウマは、ここでいう「命の息」が元になっている。この命の息は、イエスの次の言葉にもかかっているかもしれない。

命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。 (ヨハネ福音書6:63)

小宮光二氏はここで説かれている“霊”はプネウマに当たると説いており、インド思想では「アートマ」という語がそれに相当すると述べている(参考動画①)。    

 

女=人を助ける者 ⇒ 天使、菩薩、…

  やがて神は「人の助けになる者」を造ろうと思い立ち、人を眠らせてから肋骨を取り出して、それを女に造り上げた。この瞬間、性を持たない単なる人であったものに性差が生じた。人を男たらしめたのは、このとき神が女を造り上げたからだ。

創世記を読んでいると、「アダム」は最初は「人」という意味の一般名詞だったのが、いつしかひとりの男の固有名詞に取って代わり、さっきまで「人」とか「男」とか呼称していた人物のことをいつの間にか「アダム」と呼ぶようになっていく。アダムはエデンの園を追われるとき、女に名前を付ける。

アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
(創世記3:20)

エヴァの元の意味は命、生命。男のほうは語源が土塊(つちくれ)とか土の塵で、女のほうの語源は生命。男が土で女は命というわけで、それぞれの性質がよく表されている。

いったい、創世記など旧約聖書の世界はシュメールの神話が原型になっている。エデンの園もそうだし、シュメール語で肋骨は「ティ」で、これには命という意味がある(*5)。

  さて、もともと神は「人を助ける者」として女を造り上げた。いくぶんこじつけ気味になるが、“人助け”とくればそれは天使の仕事。天使の絵画が女性っぽく描かれるケースが多いのは、もしかしたら「人を助ける者=女」のイメージが影響しているかもしれない。

また、巷の仏教では菩薩行のことを人助けと言ったりする。本来の菩薩行の意味はそこだけではなくてもっと広いのだけれど、人助けは菩薩行が持つ性格の一面を表わしていると言えなくもない。 観音様をはじめ、多くの絵や彫刻が菩薩や仏様を女性的に表現している。これもまた「人を助ける者=女」という関係性を感じさせる。    

 

次元上昇で性差消失。他化自在天で性差はほぼ消える?

  仏教に限らず神智学やスピリチュアルの世界では、一般に次元上昇するにつれ性別の差がなくなっていくとされている。根拠はないが筆者は性差が色濃く出るのは6次元くらいまでのような気がしている。

仏教では兜率天という階層が7次元に相当する(*6)。天人たちの住む世界で、外院と内院に分かれている。法華経の普賢菩薩勧発品によると、兜率天には弥勒菩薩が住んでいる。娑婆で法華経をきちんと書写して暗記した人は、死後に兜率天に転生して神々の仲間になる。そして内院で求法者や天女たちに囲まれながら、弥勒のように涼しい顔で教えを説くのだとされている。

勧発品のこの描写からすると、7次元には求法者(=菩薩)と天女が混在していて、明瞭な性差が見られるが、天人界だけあって、娑婆のドロドロした男女の愛欲のきつい執着はかなり薄れているようだ。

その先の8次元、9次元に登って行くにしたがって性差がだんだん薄れていくと思われる。9次元は他化自在天で仏国土に相当する(*6)が、この付近で性差はほぼ消えているのではないだろうか。仏教風の言い回しを使えば、

男でもなければ男でないものでもなく、
女でもなければ女でないものでもなく、
別のものでもなければそのようなものでもない。

といった感じで。冒頭に引用したトマス福音書・語録22はこれにちょっと似ている。

仏教の他化自在天(=仏国土)はスピリチュアル的には大天使界と整合するように思うが如何。バックボーンの思想や世界観の違いに応じて階層の性質や刻み方に多少の相違はあるだろう。また、菩薩と大天使とでは仕事の中身がちょっと違う。このあたりは仏教とキリスト教の違いが反映されている。

他化自在天の名が示すとおり、仏国土にいる菩薩の本来のミッションは、自由自在に他の世界を産み出し、そこに肉体を持って転生し仏法を広めることだ。  

 

現一切色身三昧で宇宙を創造する菩薩

  仏国土は完全な対称性の世界で、如来と菩薩の関係性だけで構成されている世界だ。娑婆の人間には耐えられないまばゆい光に満たされていて、その光は“生命のエネルギー”あるいは“存在のエネルギー”とも呼ばれる。

菩薩は転生にあたってみずから宇宙を生み出し、そこに肉体をまとったみずからの魂を現わす。仏法ではこのわざを現一切色身三昧と呼ぶ。

つまり現一切色身三昧とは宇宙創造のわざだ。菩薩が宇宙を生み出す様子を低層次元から眺めると、あたかも神様が天地創造をしているように見える(参考動画②)。ただ、世間の仏教界では菩薩行の目的や現一切色身三昧について、そういうふうには考えていないので、意見を交しあうときには注意が必要だ。

現代科学ではインフレーション理論とビッグバン宇宙論が最も有力視されている理論なので「菩薩は真空に自発的対称性の破れを生じさせてインフレーションからのビッグバンを起こして宇宙を創造し、その中にある恒星系の軌道上にある惑星に肉体をもってみずから転生する」という説明が現実に近いかもしれない。

このように菩薩は創造性という大きな特徴を持つ。創造性とは母性的特質であり、女性に属する性質なため、やはり低層次元から宇宙創造を眺めていると、それが女性的な性質のように感じられたり、見えたりするのかもしれない。

上で引用した創世記3:20「彼女がすべて命あるものの母となった」のとおり、生きとし生けるものの源は母性そのもので、女性性を強く帯びているという考え方は、ラブリーだ。  

 

ところで、上でも触れたが、聖書の創世記に沿って言えば菩薩は天地を創造した創造主ということになる。ではユダヤ教のヤハウェ神は菩薩なのかというと、ヤハウェは仏法とのご縁がないので残念ながら菩薩までは行かない。スピリチュアルな観点で言えば6次元、つまり「神霊界」にいる神々に相当するようだ。いわゆる地域神の一人という位置づけがちょうどいいのではないか。  

 

尼僧の教団はお釈迦様が初めてつくった

  当ブログ掲載の拙稿『解脱する四次元生命体と沈黙する菩薩たち◇LGBTQ龍王娘◆』でも少しばかり触れているが、仏国土にいる菩薩は基本が男子のようだ。龍王娘のケースでは、わざわざ男性器を装着してから解脱する様子が描かれている。

また、仏国土の描写には「そこには婦女子は一人もいない」とか「愛欲から離れて清浄とした男子ばかり」といった表現がよく使われる。つまり、

 

 仏国土とは、女がひとりもいない世界。  

 

そんなに女が嫌なのかと、なんかトラウマでもあるのかよと言いたくなるが、いっぽうで、法華経勧持品では女人成仏が繊細なタッチで描かれる。また、テーリーガーターには、お釈迦様のもとに駆け込んで魂の救済を得るさまざまな女性たちの姿が描かれている。お釈迦様はべつに女が嫌いとか避けていたとか、そういうことはまったくない。むしろ、中村元氏によれば尼僧の教団は「仏教が初めてつくったのである」(*7)。  

これらはつまり、次元上昇することで性差が薄れていく作用が関係しているのだろう。3次元の娑婆にいるうちは女でも、解脱して上の仏国土や虚空会に上がっていくと男女の別が自然になくなって、ノーマンズランドの用法と同じ単なる“man”の状態になるということではなかろうか。  

それはつまり「生ける霊」、魂の本来的な姿、プネウマやアートマになるということだ。

釈迦やイエスのような高次元の存在にとって、男女の性差は無意味であったろう。  

 

天地創造前の世界(*8)には、如来と菩薩だけがいる。そこは如来と菩薩の関係性だけで構成されている世界だ。

 

*1 『新約聖書の女性観』荒井 献 岩波セミナーブックス27 1988年
*2 『山本七平の旧約聖書物語』山本七平 徳間文庫 1988年
*3 『法華経』随喜功徳品
*4 『旧約聖書を語る』浅野順一 NHKブックス 昭和54年
*5 『シュメル神話の世界』岡田明子、小林登心子 中公新書 2008年
*6 『真訳法華経』小宮光二、奥平亜美衣 廣済堂出版 2022年
*7 『テーリーガーター 尼僧の告白』中村 元訳 岩波文庫 1982年
*8 『新約聖書』ヨハネ福音書17章

【参考YouTube動画】
① イエスの法華経6 未来の菩薩達は生まれかわったその世界の過去で私が語り弟子達が広めた私の法華経を肉を食べるように血を飲むように読み書き考え人に話し理解せよ! 2022/06/22
② 11次元は分離した空間として表現できない如来の遺骨の全体多宝塔これが限界!解脱してない者には9次元の1仏国土から現一切色身で宇宙を生み出す菩薩が創造主に見える!  

 

 

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