塔を”見る”ということの意味~見宝塔品、従地湧出品そして無生法忍~

存在の正しい法則

塔を”見る”ということの意味~見宝塔品、従地湧出品そして無生法忍~

 

如来が眉間から叡智を放つ瞬間は法華経の中に都合三回ほど見られる。序品、見宝塔品、そして妙音菩薩品だ。これらは同じ情景をそれぞれ異なった角度から描き出しているもので、同じ出来事の描写でありながら、盛り込まれている意味が各章でまったく変わっている。
法華経の壮大なテクスチャーに仕込まれている謎を解くのはきわめて困難だ。現に、この経典の真の意味を人類が理解するまで2500年かかった。法華経はきわめて巧妙な構成、構造を持ち、練られたレトリック、驚くべきメタファ、そしてゴータマ・シッダールタという3次元生命体の持つおおらかで細やかな人柄を存分に駆使しながら、スパコンもハッブル宇宙望遠鏡も粒子加速器もない大昔の人々に、量子論、多世界解釈、ビッグバン宇宙論、インフレーション理論、超弦理論、自発的対称性の破れ等々、この宇宙の成り立ちの何たるかを伝えようとしている。大地の果てには断崖絶壁や大きな滝があって、たくさんの象たちが地面の下を支えていると思っている人たちに、――古代インドの宇宙観がそれをすでに先取りしている面があるとはいえ――アインシュタインやニールス・ボーア、エヴェレット、ホーキングたちが考えたことを教えようとしている。

多宝塔とは教えを説き終えて入滅したすべての如来の集合体のことで、この存在の世界のすべての結果、すべての始まり、すべてのプロセス、その全体を意味する。”誕生-維持-消滅”のサイクルを完成させたすべての如来が一魂(あるいは一塊)となっている状態だ。微妙な言い方をお許しいただきたいが、無限の空(くう)のかたまり、とでもいおうか。
多宝塔は法華経のそこかしこにひんぱんにその姿が確認されるが、最も印象的なのはやはりなんといっても見宝塔品だろう。巨大スペースシップもかくやと思わせる塔の内部から「善い哉善い哉釈迦牟尼世尊」の名調子が流れてくる。グリドゥラ=クータで教えを説くお釈迦様を称賛する多宝如来の声だ。その後、お釈迦様は大楽説菩薩大士との謎めいたダイアローグ(ここが世界のすべてを説き明かしている箇所なのだけどそれはさておき)ののちに、眉間から光明を放ち、全天に拡散している無数の仏国土を顕現させた。

そのとき、世尊は両眉の間にある毛の環(白毫)から一条の光を放った。その光が放たれた瞬間に、東方において、ガンジス河の砂の数にも等しい五十・千万億の世界に住む尊い仏たちの姿がすべて見られた。また、それらの仏たちの住む玻璃づくりの仏国土も見えた。それらの仏国土には、種々の宝樹が色とりどりに生い繁り、細長い布切れの瓔珞が一面に飾りつけられ、幔幕が張りめぐらされているばかりでなく、七宝の飾りのついた黄金の網で覆われているのも見えた。それぞれの国土では、尊い仏たちが美しく魅力のある声で人々に教えを説いているのも見えた。また、それらの仏国土に幾十万という求法者の満ち溢れているのも見えた。東南の方角においても、このようであった。南の方角においても、このようであった……(岩波文庫『法華経』見宝塔品より)

 

如来が生み出した無限の仏国土が融通無碍につながり合う世界が、如来によって空に描かれた。わたしたちはいま、法華経を通してこの驚異の情景を見ている。では、”見宝塔”というとき、この<見る>とはどういうことを意味しているのであろうか?それは、法華経の中に描かれた広大な世界の全貌が、ほかでもない、それを読んだあなたの精神の深奥に、同じように拡がったということを意味する。
お釈迦様に拡がる融通無碍の世界を、わたしたちは法華経を通して<こちら側>から見ている。その、こっちでその世界の全体を書いた法華経の言葉を読むことで、わたしたちの中に、あなたの中にも、同じように融通無碍の世界が拡がった。であれば、こう考えることができる(そんなことは起きなかったわけだけど)もしお釈迦様や菩薩たちが経典の中で急に振り向いて<こっち>を見たら、彼らはあなたと同じように、ガンジス河の砂の数ほどの仏国土が無限に拡がる壮大な光景を目にしただろう。釈迦如来の無限の姿を法華経を通して読むことで、あなたの中にも無限の世界があるということが認識されたのだ。そしてこの両方において拡がっているこの無限は<なにもない>とイコールでつながっていて、「∞=0」という、数学をめちゃくちゃにしてしまう式によって表現される。仏法ではこれを「無生法認」と呼ぶ(あるいは無生法忍とも)。

 

無生法忍については法華経の中で次のように注釈が加えられている「この世に存在するものはすべて生じたり滅したりすることがないという真理」。本来なにも生じていないことを認識する知。ほんらい、この世界にはなにも生じてはいない、いろんなことが起きているように見えるけれど、なにも生じていないし、なにも始まってもいない――それを認識すること。
宇宙を見上げると真っ暗闇のように見えるが、それは地球上の生命体とりわけ人間に備わっている五感の機能が著しく低いからだ。ある種の望遠鏡で宇宙を覗くとキラッキラの世界が見える。だが如来の叡智の目はそんな望遠鏡の能力など原子の塵以下の問題外だ。如来は凡夫を次元レベルではるかに超える力で三界を見渡すのだということは、別のコラムで書いた。三界を見通す力、すなわち観自在力。無限の存在界のすべてをあやまたず如実に見る力。それは取りも直さず<なにもない>を認識する知、無生法忍にほかならない。”見宝塔”ということ、塔を”見る”ということの意味はこれだろう。人間的な感覚で言えば、無生法忍になること。お釈迦様も、過去・現在・未来の偉大な求法者たちも、あなたもわたしも、無生法忍。釈迦如来は多宝塔の扉を開けるために虚空に舞い上がり、多宝如来と対面し、獅子座に並んでツーショット状態になった。そうして四種の会衆たちも中空に登らせた。そして釈迦はこう言うのだ。

「僧たちよ、おまえたちの中で、このサハー世界においてこの『正しい教えの白蓮』という経説を宣揚することができるのは、誰なのだ。いまや、その時、その機会は近づいている。」(同)

如来がその人生において説く教えの集大成が、いまや虚空会で結実しようとしている。

余が入滅したときにも、この経説を信奉しようとする者は、
これらの仏たちの面前で、速やかに誓いの言葉を語れ。
聖仙プラブータ=ラトナは入滅したが、今や完全に目覚めて、
この経典の宣揚を決意する者の獅子吼を聴こう。(同)

あおりにあおる釈迦如来の言葉にほだされた大量の菩薩たちが、口々に教えを広めることを誓う。場面はもう次に移って従地湧出品だ。法華経伝道を誓った菩薩の人数は次の式によってあらわされる。

(宣揚を誓った菩薩数)=(ガンジス河の砂の数)× 8

だがここに至って、八恒河沙の数に過ぎたる菩薩魔訶薩たちは、釈迦如来による想定外の謝絶に遭うことになる。そのメッセージはこうだ「おのれの法華経を語れ」。このことは、融通無碍の世界の中に無限にあるひとつひとつの仏国土から、さらなる無限が生み出されていくことを示唆している。そしてそれらはすべて「そもそも生じていない」のである。考えるのをやめたくなってきた……だがこれこそが、法華経が指し示す<塔を見る>ということの意味ではないだろうか。ある如来があなたに問いかける「きみは多宝塔を見たか?」。それは無生法忍が放つ<存在への問い>でもある。

 

 

【参考】
岩波文庫『法華経』
YouTube▽「Koji,s DeepMax」より
法華経大講話2 第14章従地湧出品 釈迦は見せる仏であなたは見る仏!無生法忍の意味! 2019/08/24
法華経大講話3 第14章従地湧出品3 超真空!言葉では現せるこれ以上大きな無限はという無限! 2019/08/24
▽「人間を越えた人のためのチャンネル」より
見宝塔品を理解するためのプロローグ!宝の塔を見るとは真空のシステムを見るということ! 2021/06/28
▽「『法華経・日蓮聖人の教えに学ぶ』 寶泉寺 (ほうせんじ)チャンネル」 より
第192回 従地涌出品 2020/11/21

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