授記とビッグバン、終わりと始まり「オレの法華経をよろしく」①

存在の正しい法則

 

 

私にはスタートだったのあなたには
ゴールでも……
JAYWALK

 

 従地涌出品から出てきた地涌の菩薩たちは、釈迦如来のもとで法華経を学び、釈迦如来から授記を受け、それぞれが生まれ変わった世界で釈迦如来の説く法華経を弘めることを誓った者たちだ。彼らは無限の真空の中を飛び交いながら、転生を繰り返す。生まれ変わる先はサハー世界にとどまらない。ほかの世界にも融通無碍に生まれ変わって、教えを弘め、学びを深め、やがては自らも如来となるときが来る。彼らはかつて釈迦如来が自分にそうしてくれたように、今度は自分の弟子たちに授記を授ける。きっとこんなふうに言いながら「オレの法華経をよろしく頼むよ」。
 つまり、お釈迦様の弟子だったこれらの菩薩は、お釈迦様の法華経を学び弘めながら、弟子や仲間を増やしていくプロセスにおいて<自分が説く教え>を完成させるのである。お釈迦様の法華経ではなく「オレの法華経をよろしく」。すべての弟子に授記を授けたのちこう言い残して、かの如来は多宝塔内部でほかの如来たちと一魂(一塊)となり、完全な涅槃に入る。

 見宝塔品の前半部(提婆達多関連の挿話が開始される前まで)と従地涌出品が繋がっていることは以前の記事でも少しご紹介した(「塔を”見る”ということの意味~見宝塔品、従地涌出品そして無生法忍~」)。従地涌出品はまた、その次の如来寿量品とストーリー展開が繫がっていて、如来寿量品はさらに他のテーマを扱った章を挟んで如来神力品と繋がっている。
 宗教的な意味での経典としてはともかく、一冊の書物としての『法華経』を読んだうえでの筆者なりの感想だが、この本は音楽で言う循環形式に近い構成で書かれているように思う。まず序品でこの存在の世界の全体像が示され、その中でいくつかの重要なモチーフが提示される。それらの動機は各章において入念に展開され深掘りされたうえで、最終的な主題である<存在の本質>に向かって収斂していく。序品はソナタ形式でいう主題提示部か、もしくは(ブラームスの第1シンフォニーのように)楽曲の全体像を暗示する役目を担う大部の序奏に相当する――という印象を持っている。
 ある種音楽的な構成を持つ物語としての『法華経』のメインの流れは、

  序品~法師品~見宝塔品~従地涌出品~如来寿量品~如来神力品

というふうに繋がっている。この流れと別に<序品-見宝塔品-妙音菩薩品>という、如来の眉間の白毫でリンクされたもうひとつの大きな流れがある。存在論・宇宙論としての法華経の根幹的な意味をつかむ際には、こちらの流れのほうをよく読み込んだうえでじっくり考えていくことをおすすめしたい。
 これら主要な各章の間にサイドストーリー的な諸々のエピソードが置かれていて、そのエピソード中にも、弥勒の問い、光、ストゥーパ、授記、仏国土、真空、永遠(とわ)の叡智の拡張、などといった重要モチーフが随所に散りばめられ姿をあらわす。主要な章の流れの途中にサイドストーリーが挟まることで話の筋がいったん遮断されてしまい、メインストーリーの展開が掴みにくくなっているきらいはある。だが、入れかわり立ちかわり出現する重要モチーフによって全体の有機的な連携は強固な繋がりを形成・維持している。また、強制的な中断の後に少し間を置いて話が再開するという手法によって、むしろ物語全体の構造に立体感が生まれている……といった感想を筆者は持ったが如何。
 法華経も終盤にさしかかって普賢菩薩勧発品に来ると、上述したメインの流れの<法師品~見宝塔品>の情景が再現される(参考:YouTube 「法華経大講話4 第14章従地湧出品 この一生あなたは地湧の菩薩か如来の人生か!」2019/08/26)。これは従地涌出品でマイトレーヤらによって提示された問いへの最終的回答でもあるだろう。さらにこの章ではそのマイトレーヤが最高の役回りで登場してきており、長い物語を読み進んできた後の深い感興は、ここにきていやがうえにも高まっていく。

それはさておき、

 見宝塔品~従地涌出品のつながりの様子をもう一度みてみよう。虚空会は時空のしばりから自由なため、地涌の菩薩たちは出現した途端に、もう未来の如来として釈迦如来主宰の虚空会に招かれてしまっている。なんなら多宝塔にもう入っている(ほかの世界での話だが)。授記を授かり、弘経の誓いを立て獅子吼するのと同時に、ほかの世界で多宝塔の中から「善いかな善いかな」とほかの如来に祝福を投げかけているという、時空を超越した世界ならではのわけのわからない光景が展開されている。まず見宝塔品から引こう。

 そのとき、世尊は両眉の間にある毛の環(白毫)から一条の光を放った。その光が放たれた瞬間に、東方において、ガンジス河の砂の数にも等しい五十・千万憶の世界に住む尊い仏たちの姿がすべて見られた。また、それらの仏たちの住む玻璃づくりの仏国土も見えた。それらの仏国土には、種々の宝樹が色とりどりに生い繁り、細長い布切れの瓔珞が一面に飾り付けられ、幔幕が張りめぐらされているばかりでなく、七宝の飾りのついた黄金の網で覆われているのも見えた。それぞれの国土では、尊い仏たちが美しく魅力のある声で人々に教えを説いているのも見えた。また、それらの仏国土に幾十万という求法者の満ち溢れているのも見えた。
 (岩波文庫『法華経』見宝塔品より)

 ここで描かれた無数の「尊い仏たち」のうちのたぶん数十分の一ぐらい――無限に対する数十分の一なので結局無限になるのだけど――は、地涌の菩薩たちの未来の姿だと思われる。舞台はまだシーン11・見宝塔品なのに、次のシーンが出番の地涌の菩薩たちの様子が、未来仏として先に出てきてしまっている、という状況だ。
 時系列的に話がわかりやすい流れで物語を書こうすると、どうしても<見宝塔品からの従地涌出品>というストーリーテリングになるわけで、じっさい、わたしたちのこの世界の『法華経』も、その順序で書かれている。だが誠実な法華経編さん者の気持ちとしては、見宝塔品をできるだけ如実に書きたい。台本ではまだ登場していない地涌の菩薩たちがすでに尊い仏になっていて、自分の仏国土で自分の法華経を説く様子が写り込んでしまっている情景もカットしたくない。となると、次の章が出番のはずの地涌の菩薩たちの未来の姿が出てきてしまっているこの不都合にも目をつぶるしかない。
 時空のない世界の出来事を時系列的に表現しようとすると、地涌の菩薩たちがもうすでに如来になって、如来としてふるまっている様子が背景として写り込んで、見切れないまま描像の中に書き込まれてしまうのだ。見宝塔品の意味をわかってもらうためにはどうしてもこのシーンはカットできない、でもその際に生じる時系列的な矛盾をいちいち説明するのはストーリーテリング上不自然なので書けない……悪いが察してくれよ……といった感じだろうか。そして、後世の多くのブッディストたちもこういった事情をある程度察してくれてはいるが、まだまだ読みが甘いのは否めない。根本的な理解にはまだ至っていないのが実情ではなかろうか。
 次に、序品で同じ情景を描いている部分を引くと、

 そのとき、世尊は両眉の間にある毛の環(眉間白毫相)から一条の光を放った。その光は、東方に於いて、一万八千の仏国土に拡がった。そして、それらの仏国土は、すべて、下はアヴィーチ(無間)大地獄から、上は宇宙の頂に至るまで、その光に照らされて、完全に見渡された。
 これらの仏国土には、六種の運命をたどる衆生がいたが、これらすべての者の姿が残らず見えた。(中略)これらの尊き仏たちが説く教えも、すべて、余すところなく聞こえた。(中略)これらの仏国土には、偉大な志をもつ求法者たちが(中略)種々さまざまな巧妙な手段に導かれて、求法者としての修行(菩薩行)をしていた(中略)また、これらの仏国土には、完全に平安な境地にはいった尊き仏たちの宝玉づくりの遺骨塔があったが、それらもすべて見られた。
 (同、序品より)

 見宝塔品では「五十・千万憶」になる仏国土の数は、ここではまだ「一万八千」しか見えていない。「東方」とは無限の過去を意味する。無限の過去に拡がっている各仏国土に、0次元(無間地獄)から六道輪廻を挟んで10次元(「宇宙の頂」=存在界の最高峰、有頂天)までが属しているのが見える。
 序品の時点ですでに、地涌の菩薩が「尊き仏」として教えを説いている姿が描かれていたことがわかる。求法者たちが「さまざまな巧妙な手段に導かれて」と、如来寿量品で明かされることになる存在界の実態(「如来寿量品と光速度不変との関係 ~わたしという存在の不安について~」を参照)に関わるモチーフも顔を出している。そして「完全に平安な境地にはいった尊き仏たちの宝玉づくりの遺骨塔」とあるように、各仏国土に多宝塔が出現している情景も遠望されることから、これらの無数の仏国土でも、わたしたちの住むサハー世界と同じように虚空会が開かれていることがわかる。

 おそらくは、向こうの世界で弥勒の役を演じているアクターがこっちを見て「一体これはなんなのか」と向こうの世界の言語で奇瑞に打たれているであろう。そして向こうに見える遺骨塔の中にはもうお釈迦様も入っていて、向こうの如来に「善いかな善いかな」と祝福を投げかけている。こちらの世界に出現した多宝如来とその分身諸仏もまた、あちらの世界の多宝塔の中で一魂となっている。分身諸仏のそのまた分身諸仏についてはいうまでもない。地涌の菩薩すなわち無限の未来仏についてはいうまでもない。未来仏の分身諸仏についてはいうまでもない。そしていま法華経を読んで深く感銘するあなたについては、いうまでもない。
 宝玉とはなにか。宝とは、黄金とは、一条の光とはなにか。それはこの存在の世界に生を受容した生きとし生けるものすべてが、さとりを開くことの譬えだ。ひとつひとつのさとりとは、ひとつひとつの宝。多宝塔とは無限の宝の集合体。存在の本質とは、宝を永遠に生み続けること。

 時空の制約を受けない虚空界では、如来-菩薩間の授記の授受によって、無限の終わりと無限の始まりが一挙に成立する。それはこういうことだ。如来は菩薩たちに授記を授け、未来においてこの弟子が如来となることを確約する。他方、授記を授かった菩薩は獅子吼して弘経を誓い、如来神力品で描かれたような熱い思いを胸に、無限の真空の中をいっさんに駆けめぐり、宇宙創造の三昧で無限の世界を生み出し、そこで法華経を学び、弘めていく。
 「すべての弟子たちに授記を授け、多宝如来と合一し入滅する」という如来にとっての終わり。同時に「授記を授かり果てしなく転生して教えを弘める」という菩薩にとっての始まり。如来にとってのゴールは菩薩にとってのスタート。そしてそれは回りまわって未来仏のゴールでもある。如来は事実上無限に存在し、そのひとりひとりの如来から事実上無限の数の菩薩が授記を受け、それぞれがあらたな無限のスタートを切る。いわば、なにもない真空の中では無限の終わりと無限の始まりが、同じ刹那に、尽きることなくまわり続ける。もはや終わるということもなければ始まるということもないのだ。
(つづく)

 

 

【参考】
岩波文庫『法華経』1964年

YouTube
「KoJi,s DeepMax」より
「法華経大講話1 第14章従地涌出品 釈迦の無限億土とあなたの無限億土の違い!」 2019/08/24
「法華経大講話3 第14章従地湧出品3 超真空!言葉では現せるこれ以上大きな無限はという無限!」2019/08/24

「人間を越えた人のためのチャンネル」より
「今回の勉強会テーマは!新しい法華経の誕生!あなたの中にも法華経がある!釈迦如来から私へ!私からあなたへ!あなたから無限の未来仏へ!永遠に続くこの連鎖が空!無生法認の姿!」 2020/11/02

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