~無生法忍とは~
「E=mc²」の項でも少し触れたが、無生法忍について考えてみたい。
別の記事「塔を”見る”ということの意味~見宝塔品、従地湧出品そして無生法忍~」の中で、無生法忍について次のように説明した。
無生法忍については法華経の中で次のように注釈が加えられている「この世に存在するものはすべて生じたり滅したりすることがないという真理」。本来なにも生じていないことを認識する知。ほんらい、この世界にはなにも生じてはいない、いろんなことが起きているように見えるけれど、なにも生じていないし、なにも始まってもいない――それを認識すること。
ところで、現代日本の仏教界は「無生法忍」をどう解釈しているのだろうか?そこで、いろいろググってみて、そのへんのところを調べてみた。
漢字の「無生法忍」を調べる
無生法忍
「存在するものには自性というものが なく、不生不滅であるという真理を把握し、認証すること」の意。善導は無生法忍とは喜忍(きにん)・悟忍(ごにん)・信忍(しんにん)の三忍をいうと説明する。 真宗では浄土は真如そのものとみ、信心の知恵で無生の生たる浄土往生を決定することを「無生法忍を得る」という。本経でこの語は以下数か所に出るが、 現生において無生法忍をうるとするのは、ここと正宗分の末の二か所である。・・・ (中村)/ 無生忍。(無生忍の略)生滅を越えた絶対不変の真理を悟って心が安んずること。(広辞苑)
《オンライン版 仏教辞典 より》
むしょうぼうにん
無生法忍
anutpattika-dharma-kṣānti (S) 「無生忍」ともいう。一切のものが空であり、それ自体の固有の性質を持たず、したがって生滅変化を超えているという事実の道理を受け入れること。kṣānti(忍耐)を「忍」と直訳しているが、この場合の kṣānti は、事実の道理を事実の道理として受け入れるという意味。無生法忍は大乗独自の概念である。『大智度論』などは、不退の菩薩の段階で得ると説く。『無量寿経』(上)は音響忍・柔順忍・無生法忍の「三忍」をあげる。
《ウィキアーク(WikiArc.wikidharma.org)より》
むしょうぼうにん 無生法忍
梵語 アヌトパッティカ・ダルマ・クシャーンティ(autpattika-dharma-ksānti)の意訳。三法忍の一。無生忍ともいう。真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとること。 親鸞は、無生法忍を喜・悟・忍の三忍の徳義を有する他力信心のこととする。また無生法忍を正定聚不退の位とする場合もあり、『浄土和讃』には念仏の心をもちてこそ 無生忍にはいりしかば (浄土 P.577)
とあり、「国宝本」左訓には、「不退の位とまうすなり。かならず仏ほとけになるべき身となるとなり」(*)とある。→三忍 (浄土真宗辞典)
《新纂浄土宗大辞典より》
むしょうぼうにん/無生法忍
あらゆるものが不生であるという真理を確信すること。Ⓢanutpattika-dharma-kṣānti。無生忍ともいう。ここでいう「忍」とは「認」と同じであり、認める作用を意味する。語尾のⓈkṣāntiも、同様に、認める作用を意味する。(中略)「無生法」とは、生滅という現象的なありかたを離れている真如実相の理そのものを意味し、それに対する「忍」は、智慧がこの理に安住して不動であることをいう。
仏教はそれなりに歴史の長い宗教なので、僧侶たちの間でいろいろな議論が行われたのだろう。なにがなんだかよくわからない説明もある。わたし(筆者)に言わせると、如来が説いたおおもとの意味や本義に余計な修飾語がたくさん付け加えられてる感がテンコ盛りで、仏教人士たちが自分たちの理論構築に酔っているような感じすら覚える。筆者的には、ストレートにいちばん意味がピタッと入ってくるのは広辞苑の「生滅を越えた絶対不変の真理を悟って心が安んずること」という簡潔な短い説明だった。
サンスクリット語の語義はどうなのか?
無生法忍はサンスクリット語で「アヌトゥパッティカ・ダルマ・クシャンティ」という。
↓
無生-法-忍=anutpattika-dharma-kṣānti
無生=anutpattika
法=dharma
忍=kṣānti
=忍、kṣānti について調べてみた=
《英語のウィキより》
【忍 kshanti】 Kshanti From Wikipedia, the free encyclopedia Kshanti (Sanskrit kṣānti) or khanti (Pāli) is patience, forbearance and forgiveness.[1] It is one of the pāramitās in both Theravāda and Mahāyāna Buddhism.
(Buddhism) patience, forbearance and forgiveness: one of the paramitas in Theravāda and Mahāyāna Buddhism.
これをグーグル翻訳にぶっこむと、
(仏教)忍耐、許し、許し:上座部仏教と大乗仏教のパラミタの1つ。
と出てくる。patience は「忍耐」、forbearance は「寛容,忍耐,我慢」の意味になる。 forgiveness は「寛大さ,免除」といった意味。我慢して許して受け入れる、って感じですかね。
(ついでにパラミタについて)
(ついでにパラミタについて)
paramitaとは 〈サンスクリット語〉《仏教》波羅密◆解脱(nirvana)に至るための積み重ねるべき修行や徳目のこと。小乗仏教では10の徳目(十波羅密)が、大乗仏教では6の徳目(六波羅蜜または六度)が定められている。◆【語源】「完全」「完成」を意味する。発音pɑːrʌ́mətə、カナ パーラマタ
=無生 anutpattika について調べてみた=
WISDOM LIBRARY という英文のサイトでは、
Sanskrit dictionary [«previous (A) next»] — Anutpattika in Sanskrit glossary Source: Cologne Digital Sanskrit Dictionaries: Goldstücker Sanskrit-English Dictionary Anutpattika (अनुत्पत्तिक):—[bahuvrihi compound] m. f. n.(-kaḥ-kī-kam) (In Bauddha li-terature.) Having no origin or birth, not or not yet being produced. (The fem. -kī belongs to Bauddha writings; in the classic language, it would be -kā.) See the following. E. anutpatti Ii., samāsānta aff. kap.
これをグーグル翻訳にぶっこんでみると、
サンスクリット語辞書
[«前(A)次»] —サンスクリット語の用語集のAnutpattika
出典:ケルンデジタルサンスクリット語辞書:GoldstückerSanskrit-英語辞書
Anutpattika(अनुत्पत्तिक):— [所有複合語] m。 f。 n。
(-kaḥ-kī-kam)(Bauddhaの文学で。)起源や出生がなく、まだ生産されていないか、まだ生産されていません。 (fem.-kīはBauddhaの著作に属しています。古典言語では、-kāになります。)以下を参照してください。 E. anutpatti Ii。、samāsāntaaff。 kap。
という感じだった。ノーオリジン、ノーバースで、まだ生まれていない、という。
ちなみに、「無生法忍」を英語辞書のLingueeで英訳してみたら、
無生法忍
anutpattika-dharma-ksanti (recognition that nothing really
arises or perishes)
anutpattika-dharma-ksanti (recognition that nothing really
arises or perishes)
という感じになった。
arise : 起きる,始まる,現れる
perish : 滅びる,消え去る,消滅する
直訳すると、「なにものもほんとうに起こりも始まりもせず、消滅もしないという認識」という意味になる。
「忍」=認識機能+心の感覚
調べたうえでの筆者なりの感想を言うと、中国~日本の仏教関係者らは「忍」の上に「道理を受け入れる」とか「確信する」とか「悟って安住する」とか、肯定的で心がホッとする感じのほうの意味をより多く盛っていて、
一方、英語で調べてみたら、忍耐とか我慢とか、そういう辛い感じの意味を多めに盛っている感じがした。
また、別の角度から見れば、「忍」には、「認識」とか「認知」という単純な機能に加えて、「耐える」とか「我慢」、あるいは「安住」「確信」といった心の感覚が盛り込まれているとも言える。いわば重層的、多層的な意味の取り方ができるようになっている、と思った。
だが結局これも、後世の余計な付け足しなのかもしれない。「人間は″この世界にはなにもない″という認識に到達するために、さまざまな心の葛藤や精神的苦闘を経る必要があった」ということを説明しようとしているのだろうか?
そこのところは、また稿をあらためて書いてみたい。
にほんブログ村
コメント