空 くう【仏典に関するメモ】

仏典に関するメモ

 

空 くう

(前回、「」について簡単に書いたが、仏法の考え方では、色を定義づける時点でもうかなり空っぽい感じが出ているように思った)

ここでは般若心経を念頭に置いて書いてみたい。
いちばんザックリ言えば、『色=粒の世界、空=波の世界』という感じが、人間的に理解しやすいのではないかと思う。さらにもう一段世俗化すると、『色=物の世界、空=心の世界』といった表現もしっくりするかもしれない。

「空 くう」は、サンスクリットでは シューニヤーター Śūnyatā だ。仏教の伝統的な考え方では、空には「無常」という意味、それともうひとつ「無我」という意味があるとされている。無常といえば、「色」の項目でも出てきたな。

あとは数字のゼロという意味もあるようだ。さすがインド。

「諸行無常」と平家物語の出だしに書いてあるけれど、平家物語などで人口に膾炙した情緒的な虚無感と、ここでいう無常とは、まったくの別物だ。

無常の「むじょう」が、レ・ミゼラブルの「あゝ無情」の無情と同じ読みなのも手伝って、「いっしょうけんめいやってもどうせ報われないんだ」とか「権力欲に駆られて手にしたこの覇権もやがてはピークアウトして、トップの座から追いやられてしまうのさ……」といったような、みじめな感じや虚無感と同じように受け止められがちだが、そこは峻別しておきたい。仏教の無常には感情は乗っからない。

仏教の無常は、簡単にいうと「世界の中にあるすべての事象は移り変わっていく」といった感じになる。これは「色」の項目の説明とほとんど一緒だ。あと、お釈迦様の最後の言葉、

「比丘らよ、いざ私はお前たちに告げる。すべての現象は衰滅無常のものである。お前たちは放逸(わがまま)ならずして、目的を達成させよ」(水野弘元『釈尊の生涯』(春秋社、1972年)より)

ここでも無常が説かれている。

 

次に「無我」だが、我がない、となると、なんだか放心状態と勘違いしてしまいそうだが、放心状態というのは我が有る状態だ。あるんだけど、それを制御できなくてポワーンとしている状態。これが放心状態。

仏教でいう無我はそれとは別で、「世界とは関係性の総体である」というぐらいの意味になる。

モノはそれ自体だけで独立して存在することはない。お互いが関係しあうことではじめて存在し、世界が成り立つ。「我がない」とはこういう意味を言っているようだ。これでいくと、世間でいうご縁とか因縁とか、おかげさま、というのが無我の感じをよく表しているのではないだろうか。

如来のことを別名で「自己存在者」と呼んだりする。わたしたちのように関係性の中において生まれる存在ではなくて、関係性やら因縁因果を超越してみずから立つ存在者。これが如来だ。

 

まとめると、

空とは、この世界のあらゆる存在の原理をあらわしている、という感じ。

わたしなりに言うと「空とは、真にそれを語る者のこと」となる。

 

【参考】
当サイト掲載記事「E=mc² 【仏典に関するメモ】

 

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