如来は最末法に現れる【仏典に関するメモ】

通常仏教では3つの時代区分だけど

 

通常の仏教では「三時」と言って、如来の教えの変貌にしたがって「正法、像法、末法」の三つの時代区分が設定されている。

(参考、当サイト「正法⇒像法⇒末法【仏典に関するメモ】」

小宮光二氏が説く最末法 文明の4つのサイクル

だが実は、末法の次に「最末法」の時代が来る(小宮光二)。「正法の如来、像法の如来、そして最末法に如来が生まれてくる」。あるいはまた「如来は最末法にしか現れない」とも。

最末法は、末法の世に引き続き、人々が如来の教えをお金儲けに利用するなど、人の心がすさんで、正しい教え(Saddharma)がまったく伝わらなくなる時期だ。
この時期(いま)の人間は、もしキリストや釈迦がいま生まれてきて正しい教えを説いても「あんなの嘘だ!」「インチキだ!」となり、もう何を言っても無理っぽい感じだ。

最末法は「カリ・ユガ」

時代区分を4区分とする捉え方は、インド歴の4つのユガの考え方と符合するもので、正法の如来から始まったひとつの文明のサイクルを、

クリタ・ユガ(正法)
  
トレーター・ユガ(像法)
  
ドヴァーパラ・ユガ(末法)
  
カリ・ユガ(最末法)

のように照合して区分けすることができる。

カリユガの特徴についてはウィキの「カリ・ユガ」をどうぞ。最末法そのものですね。

おおもとのインド哲学では「神々の四千年がクリタ・ユガ、三千年がトレーター・ユガ、二千年がドヴァーパラ・ユガ、千年がカリ・ユガ」などとなっているようで(年数に異説も)、しかもこの一年は神々にとっての一年で、神の一年は人間に直したら360年に相当するらしい。そうなるとカリユガは36万年続く感じだ。

こういうのはその時々によって、それを唱える人によっていろいろ変わるので、しかもいろいろおおらかすぎるインド的な思考に基づいているので、年数の相違はあんまり気にしなくてもいいかも。仏教の時代区分の考え方も、「三時」から「五堅固説」に移り変わっていくなどと、かなり恣意的に変更が加えられているような気がする。
「いいや、高僧たちが文献等に基づいて厳密に、緻密に考えて決まったものだ」という人がいるかもだが、そうだとしても、どれもこれも如来(=全知者、一切を知る者)以外の人間があれやこれやと言い合って決めたものなので、頑張ったのはいいけれど、わたし的にはそこまで有り難くないと思う。

 

 

 

【参考】
人間を越えた人のためのチャンネル
「正法の如来.像法の如来.末法.最末法!なぜ文明は4段階に別れるのか!正法の如来の法華経と像法の如来の大菩薩達が見つけた真空の中の位置.並行宇宙の教え!これら2つの叡知を合わせると最末法に如来が生まれる」 2021/01/19

 

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