観自在菩薩 Avalokiteśvara①【仏典に関するメモ】

仏典に関するメモ
観自在菩薩 Avalokiteśvara(アヴァローキテーシュヴァラ)

 

有名な仏教経典「般若心経」と「観音経(観世音菩薩普門品)」に出てくる。観世音菩薩、観音菩薩、観音様、聖観音などいろいろな呼び方があるのは人気者の証し。

日本で最もポピュラーなお経の般若心経と観音経の両方に観自在菩薩が登場するのには、たぶんそれなりの意味があると思われる。

 

観自在菩薩は、西方の極楽で輝いている阿弥陀(アミターバ)如来のサイドにポジションを取る。如来の横に付く菩薩のことを脇侍(きょうじ・わきじ)と呼ぶ。もう一方の側には勢至菩薩が付き、アミターバ如来の両サイドをコンビで固めている。世俗的にはいちおう、勢至菩薩が如来から見て右、観自在菩薩が左、というのが定位置になっているようだ。

民間信仰のレベルでの日本の「観音さま」や、中国や欧米での「Guan-yin」は、慈悲の菩薩、慈愛の神として崇敬の的となっている。女神性、女性性を強く帯び、種々の彫刻や絵画でも女性的に造形されるケースが多い。

観音信仰の発祥は西アジアの愛の女神だという話もある。2世紀ごろだったか?巷間の注目を集めるキャラクターを、大乗仏教は教えの中に巧みに織りまぜて、お釈迦様の教えを人々に広めていったわけだ。

ただ、お釈迦様が「すべての世界を真実の眼であまねく見渡す能力」を説いたのは紀元前5世紀ごろ。その時代にすでに観自在菩薩について言及していたということは、お釈迦様は700年ほど未来を先取りしていた格好になる。

また、アショーカ王の時代の「Mahāvastu Avadāna (マハーヴァストゥ・アヴァダーナ)」という書物に、観自在力の概念が記されているらしく、この場合はお釈迦様の未来先取りは300年ぐらいになる。Wisdom Library によれば、そこにはこんな感じのことが書かれているようだ、

Bhagavān who takes the form of a Bodhisattva, whose duty it is to look round (Avalokita) for the sake of instructing the people and for their constant welfare and happiness.
(菩薩の姿になった覚者の義務とは、人々を導き、人々の福祉と幸福のために周りを見回すことである)

この文章の look round =見回すという語が、サンスクリットではavalokita アヴァローキタとなる。観自在菩薩、アヴァローキテーシュヴァラの源だ。

 

仏典によれば菩薩の性別は男性だが、観自在菩薩がいる極楽世界では性交の習慣がない。もはや性差が消滅していると見られる。

ではどうやって新たな生命が生まれるのかと言えば、蓮華の母胎(=matrix)の中に化生する(自然に生まれる)のだという。観音経の中にそう書いてあるのだけど、このような高貴な創造性・母性の表象は、観自在菩薩のキャラクターそのものをあらわしているとわたしは見ている。

観自在菩薩の原型は前述のように西アジアの土俗信仰の中で祀られた女神だった。それが仏教に取り入れられて菩薩になった時点で性別はなくなったけれど、命あるものを産み、慈愛を注ぐという、女性的な性格は色濃く残された、ということだろう。

 

 

観自在菩薩は性別を持たず、慈悲の菩薩であると同時に、いっぽうで、なによりもまず叡智の求法者だということは強調しておきたい。

 

観自在菩薩は般若心経に登場して智慧の完成を説く。

そして観音経では、観自在菩薩は「勝れた智慧の力」を持ち、「理智と智慧の顕著な眼の持ち主よ」と讃えられ、法の雨を降らして、人々の燃えさかる苦悩を鎮めてくれる。

 

般若心経の「照見五蘊皆空」と観音経の「普明照世間」とは、いい感じに響きあっているように見える。

 

 

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