過去-いま-未来についてのかすかな迷想 ひとふさの無

身辺雑記

 

 

 

 わたしたちがいるこの3次元、(x, y, z)の座標で位置が決定される、縦、横、高さの3つの次元に、ひとつの方向を持つ時間の流れを加えた計4つの次元で構成されたものが、わたしたちが住んでいるタイム-スペース、いわゆる時空だ。3次元プラス時間の、4次元の世界にわたしたちは生きている。<過去-いま-未来>と区別される三つの時制のうち(ノストラダムスやエドガー・ケイシーやバババンガなどを除けば)わたしたちが認識できる時間の流れは過去だけだ。こう考えると、われわれはずいぶんと窮屈な世界に生きているような気分になる。だがそれもまた<いま>の生き方次第なのだろう。
 認識こそできないけれど、この瞬間の<いま>をどう生きるか。この<いま>の処し方次第で過去が次々に塗り替えられていくのがわかる。そして過去と<いま>の2点が決まると、未来の方向性がなんとなく見えてくるような気がしてくる。時空の中で生きるとは、こういう仕組みの中で生きるということだ。なりたい未来像の方向性を示唆するのは、見えない今よりもむしろ過去の姿であろう。世界じゅうの国々が歴史観の違いでゴタゴタしたり、歴史認識問題でいがみ合ったりするのはこの原理に依る。
 国に限らず、個々人のレベルでも過去をどう認識しているかは夫婦喧嘩をはじめとする多くの言い争いのタネになっているようだ(念のため、本稿執筆時点で筆者は未婚)。夫婦喧嘩だけではない。汚辱にまみれたサハー世界の暮らしにくさはすべての地球人が知悉している。一切衆生悉皆イラッ。しかしそういう初期設定、キャラ設定、難易度選択のうえでわれわれはあえてここに生まれてきたのだ。ポジティブ思考をする人がよく「過去にこだわらないで、未来に目を向けよう!意識を向けよう!」と声をかけてくれる。気持ちはありがたいが、残念なことにわたしたちは過去にしかこだわれない世界に生きている。むしろ過去をよく知ることでよりよく未来を見通すことができるのだと、筆者は小声で指摘したい。過去から何を学ぶのか?過去にどのような学びがあったのか?わたしが生まれてきたこの世界の過去には、いったいどんな学びと教えがあったのか?このように、真のポジティブ思考とは、過去を顧みることから始まるのではなかろうか。

 わたしたちは刹那ごとに無限パターンに次々に分岐していくパラレルな世界に生きている。いっしゅんいっしゅん、無限の(わたしたち)´が絶えず出現し続けている――と想像すると、筆者は心配症なもので「そんなにたくさん世界のパターンが生まれてしまって、収納場所に困るんじゃないか」と思ったりするが、これもまた3次元人ならではの杞憂だ。たとえ無限の無限乗個の宇宙が一瞬ごとに生まれても、そんなの余裕でしまっておける大きな倉庫が、この世界のどこかにある波止場の広大な埋め立て地に建っていて、年老いた職員がアルバイトをこき使いながらきちんと帳簿をつけて管理しているのでそこは心配しなくてもいい。
 問題なのは、わたしたちは無限とおりの世界のうち、一度にたった一個のパターンしか経験できないという、これもまたたいへん窮屈な設定になっている点だ……<いま>の処し方次第で過去が塗り替えられていく、と書いた。いわば、わたしたちは一度きりの一発勝負の人生を、過去という”結果”で受容するほかない立場に置かれているわけだ。とすれば、その<いま>を自分から取り出して、自由にスイッチを切り替えてあっちこっちの未来に行くようにはできないだろうか?

 どうしてか、わたしたちは<いま>を掴まえることができない。<いま>!と思った時空の中の一点は、現にいまさっき数文字前に「思った」と書いたように、もうすでに過去だ。瞑想中のあなたが<いま>というしろものを「掴まえた!」と思ったとしよう。申すまでもなくあなたは<掴まえた>という過去形で<いま>を認識している。
 もし、わたしたちが何らかの意味で光速を超えたとすれば、<いま>なるものを掴まえることができるかもしれない。だがその場合、こんどはわたしたちは(アインシュタイン的な意味で)未来しか見通すことができない状態になっているのかもしれない。わたしが光速より早く存在している状態で<いま>を掴まえようとするとしよう。たぶん、その<いま>なるものはいつまで経っても現れずに、未来にあるままで、そのように、そうあり続けているだろう、というふうにしか感知できないのではないか。まるで、わたしの額に刻印された文字のように、どこに顔を向けても読むことができないメッセージのように。そしてそこにはこう書いてある「前に読んだことあるでしょう?」。

 形にならないまま延々と過去(または未来?)に繰り入れられていく、認識できない<いま>という瞬間の連鎖。時空の中にある<いま>という位置は意識や視点のない一点で、そこにはなにもない。意識の盲点、認識の盲点とでも言おうか。何の不思議も疑問も持たずにこれまで当たり前に暮らしていた3次元ないし4次元のこの世界には、とんでもない空隙があったのか。もしかしたら、幅も奥行きも高さもない<いま>という空間=葡萄のようなひとふさのなにもない空間が、ひとすじの時間の流れに背向して伸びきっている状態――これが時空というものなのかもしれない。ひとふさの無が時間軸の方向にグーっと引っ張られた姿。<そのようにあった>、<そうであった>というなにもない姿。では、その両端はどこに接続しているのか?あるいはどこに向かって開いているのだろうか?

 

 

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