映画『マトリックス・レザレクション』世界の万華鏡を2回振る権利

身辺雑記

 

今さらながらやっと映画『マトリックス・レザレクション』を鑑賞したので感想メモを。たとえばの話だが、この映像作品は“万華鏡を2回振る権利”について言い表そうとしている、とでも説明を加えることができるかもしれない。

それはどういう意味か。まず1回、万華鏡を振って中を見る。そこには或る景色が広がっている。すると、わたしには2回振る権利があるから、もう1回振ることができる。もちろん振らなくてもいい。

せっかくなのでもう1回振ってみよう。そして中を見る。すると、前回と異なる風景、もしくはほとんど変わらないけれど少しばかり違う景色が見える。

ときには、幾億回前と寸分違わない景色が現れることがある。この同じ景色はこの先、わたしが2回目の権利を放棄しない限り、数えることのできない回数だけ繰り返される。そしてそれとは全く異なる景色も、同じ回数だけ繰り返される。

毎回、ひとつのパターンの景色を、わたしは見ることができる。だがときどき、どういうはずみか、隣の風景がチラッと見えたりすることもあるようだ。

ところで前述のように、わたしには万華鏡を2回振る権利がある。そこで(もちろん振らなくてもいいのだけれど)わたしはもう1回振ってみるのだった。すると、前回と異なる風景、もしくはほとんど変わらないけれど少しばかり……。

……。

……。

このことは、いつまでも続いてもいいし、続かなくてもいい。

トリニティの最後の台詞はだいたいこの辺のことを言っているだろう。製作者は第一話からおそらくこれを言いたかったと思われる。ただ、この意味を(学術的にではなくて)娯楽的に分かってもらうためには、人類の知性そのものの底上げを待たなくてはならなかった。そしてマトリックス・レザレクションという映画はその作品があり得たひとつのパターンをメタ的に示しているだけだ。賢明な読者諸兄におかれてはその意味が十全におわかりいただけるものと確信している。

ガンファイトや曲芸的な格闘戦は単なるハリウッド言語なので、本作中におけるその意味は要約すれば“障碍”といったニュアンスになるだろう。あなたがなにかを精神的に決定しようとするときに立ちはだかってくる邪魔な想念の類がだいたいそれだ。

その他の表現上の工夫については、映画に詳しい人に聞くといいだろう。ひとこと添えれば、映画『マトリックス』シリーズはすべての作品において刺戟的なヒントとなる言葉がそこかしこに散りばめられている。それを探すのも万華鏡の楽しみと言えるかもしれない。

 

だがここでもうひとつ、たとえば作中に現われた黒猫を例に考えてみよう。

黒猫。これがなにかの比喩なのではないか?と考えるのは、頭の体操にはいいかもしれないが、そのやり方だとただの体操にしかならない。むしろ、わたしたちが日々いろいろやっている頭の体操や、ぶっちゃけて言えば人生そのものと言われているその状態こそが、黒猫を言い表すための比喩だ。

これと同じように、あなたを困らせる“人生とは何か?”という問いの答えは、いまあなたの目の前にある林檎か宇宙がひとつあればそれで足りる。それこそが“あなた”というたとえ話が言い表そうとしているものだ。

 

あなたにはそれを2回振る権利がある。このことはいつまでも続いていいし続かなくてもいい。

 

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました