転換点としてのキーウ、双方の読み違い【1941独ソ戦「統帥の危機」】

身辺雑記

 

「我々は、我が民族を扶養し、過剰人口を移住させるための土地を要求する。」
ナチス党綱領

 

 

ヒトラー、スターリンともに逆読み

 

 1941年6月スタートの独ソ戦「バルバロッサ作戦」。北方軍集団(30個師団、約71万名)はレニングラード占領、中央軍集団(50個師団、約131万名)はモスクワ占領、南方軍集団(43個師団、約101万名)はキエフ(現キーウ)占領が目標だ。
 ソ連のスターリンは「対ドイツは外交交渉でなんとかなる」と言っていたようだが、そのくせ「ドイツ軍はウクライナの穀倉地帯を奪うために主力をキエフに向けてくる」と戦争が起こるのを予測していて、キエフ周辺に大規模な防衛軍を置いていた。また、西への防御線延伸のために、各地で大っぴらに軍を動かしてもいた。
 一方でドイツのヒトラーは作戦当初、モスクワを主攻正面に設定して戦力を展開していた。つまり、守るソ連はキエフ防衛を重視して南方面軍を厚く、攻めるドイツはモスクワ正面の中央軍集団に打撃力を集中していた。つまり、双方がお互いを真逆に読み誤っていた。

 この両者の初期設定のアンバランス、双方の読み違いが、ある意味で独ソ戦全体、ひいてはナチスドイツそのものの帰趨を決したと言える。

 

ヒトラーとOKH「統帥の危機」で1ヵ月を空費

 ドイツ軍のモスクワ攻略を担った中央軍集団は手薄なソ連軍防御陣地を次々に貫いて戦線を急速に拡張した。他方、キエフ占領を目指す南方軍集団は兵力が少なめで、相対するソ連軍は比較的強固な防御陣地を備えて粘り強く抵抗した。南方軍集団の進撃スピードは鈍り、このためモスクワを目指す中央軍集団の南側面がガラ開きになってしまった。
 このとき、ドイツ陸軍総司令部(OKH)の幕僚はほぼ全員が「中央軍集団によるスモレンスク占領の勢いを持続して、このまま300キロ先のモスクワまで一気に攻め込んで戦争のカタを付ける」べきだと主張。これに最前線の指揮官たちも同調した。
 これに対してヒトラーは「いいや、モスクワ攻略はいったん停止して、中央軍集団の有力な一部を南方に指向し、手間取っているキエフ攻略を先にすべきだ」と主張した。

 モスクワか、キエフか。中途での作戦変更と大規模な部隊の移動に関わるこの論争によって、ドイツ軍は1ヵ月を空費した。これが「統帥の危機」だ。
 激しい論争の末、ヒトラーが自分の意見を押し通した。モスクワ正面での戦闘は一時停止して、ドイツ軍はキエフ包囲戦に取りかかり、ソ連軍に大打撃を与え、勝利した。ドイツ軍はその後1941年10月2日、仕切り直しでモスクワ攻略に乗り出すが、その直後に例年より早い降雪があった。10~11月にかけて冬将軍がいつもより早く押し寄せてきて、もともと意図的に整備されていなかったモスクワへの道路はさらにぬかるみ、ドイツ軍の進撃は止まった。冬将軍は例年以上の寒さだったようで、冬季用の装備を用意していなかったドイツ軍は凍え、そこにソ連軍の大反撃が来た。
 ヒトラーとOKHとの論争に費やされた1ヵ月があれば、冬が来る前にドイツ軍はモスクワを陥としていたかもしれない、などと言われている。

 また、ムッソリーニのギリシャ侵攻を支援するために、ヒトラーは軍の一部を同方面に差し向けた。これがバルバロッサ作戦の開始を遅らせたとも言われている。

 

ゾルゲ情報「日本は対ソ戦やらない」で極東軍を欧州正面に転用

 リヒャルト・ゾルゲからの情報で、日本は対ソ戦をやらずに、対英米戦に方針転換したことが確定した。ソ連はソ満国境に張り付けていた極東軍のヨーロッパ正面への転用が可能となった。こうして、シベリア鉄道でガタンゴトンと揺られながらヨーロッパへ送られてきた大軍が、ドイツ戦に投入された。伸び切った補給路、ぬかるみ、さらには厳冬に苦しめられていたドイツ軍の前線に、雪に慣れたスキー部隊やコサック騎兵が襲いかかった。
 ドイツ軍に開戦当初の〝電撃戦〟の勢いはもはやなかった。モスクワまであと一歩のところまで来たのに、ドイツ軍は後退を余儀なくされた。

 ちょうど、日本海軍の機動部隊がパールハーバーを火の海にした1941年12月8日ごろから、ドイツ軍は全面的退却を始めた。そしてそれはすぐに雪崩を打つ総退却と化した。

 その後、ドイツはソ連との戦いで、一時的な勝利はあっても、大局的な主導権を握ることはなかった。ある局面で戦術的勝利を収めても、ソ連軍の数による圧倒的優勢で戦線はすぐに押し戻されるのだった。比率的には、ドイツ軍の戦車1台でソ連軍の戦車5台を撃破する必要があった。結局、ドイツは戦闘に勝っても戦争には勝てなかった。

 

モスクワ攻略とウクライナ制圧、どちらが正しかった?

 OKHとヒトラーのどちらの読みが正しかったのかは検証のしようがない。ただ、ヒトラーの案を飲んでウクライナ制圧を選択したドイツは、作戦そのものは成功したが、戦争そのものの結果として大敗北した。軍事的な専門知識を欠いたヒトラーによる作戦への介入は現在、ヒトラーの大失策のひとつとして喧伝されている。だがいっぽうで、主力打撃軍である中央軍集団の南側面がガラ開きになる危険を無視し、作戦原案どおりに進めようとしたOKHを批判する意見もある。刻々と変化する戦況に応じて、臨機応変に作戦を組み替えようとしたヒトラーの戦略眼を評価する向きの考えだ。
 作戦のスペシャリストであるOKHの言うとおりに戦機を逸することなく一気にモスクワを突けば、史実のようなドイツ軍の惨状は発生しなかったかもしれない。だがこの場合においても、行政機構や軍需産業をウラル方面に疎開させたソ連が大量のT-34戦車を生産し、米英の援助を受けながら戦備を整えて再興、モスクワ奪還に大挙して来襲する可能性は否定できない。ナチ党のいわゆる「東方生存圏」を手に入れたはいいが、これをスターリンの侵略から防衛するために、ドイツは大量の常備軍を東方に配備する必要に迫られる。同時に、西から押し寄せる米英連合軍とも渡り合わなければならないわけで、結果、二正面作戦に陥ることになる。

 エル=アラメインでは勇戦敢闘したイタリア軍だが、ヒトラーにとってファシズムの盟友であるムッソリーニが軍事的にあんまり頼りにならないのは、ギリシャやエチオピアのケースが示していた。ヴィシー政府も、フランコのスペインもナチの思い通りにはなってくれない。東でも西でも、ナチスドイツはどの国からの援護もなく、単騎での戦いを強いられる格好だ。

 モスクワか、キエフか。ドイツ軍推し、ヒトラー好きの方々には申し訳ないが、どちらを取っても悪夢だったのではないだろうか。

 

 

独ソ戦はナチスドイツの矛盾の投影

 私見になるが、ドイツ軍は長期持久戦に向くように作られていなかった感がある。フリードリッヒ大王の頃から、ドイツという国は常に東西両方に戦闘正面を抱えるという状況の中で戦ってきた。戦力が二分されかねない危険な状況だ。したがって、西にいる敵をまず全力で素早く倒し、その足ですぐに軍を東に向かわせる、といった戦略を取る必要に常に迫られていた。
 持久戦での消耗は禁物だ。長槍を持った騎士が疾駆して一撃で敵をしとめるような戦い方が常に求められた。そのように将兵は訓練され、部隊の編成も、戦術も、武器も、そのような戦い方に沿うように作られた。いわば、メッサーシュミット戦闘機のように、一撃離脱で敵を撃砕する長槍騎士的な戦闘スタイルが、歴史的に定着していたのではないだろうか。OKHの参謀たちも、前線で戦う将軍たちも、そのことを熟知していた。彼らが短期決戦でモスクワを突く作戦を支持したのには、こうした歴史的な背景があったのではなかろうか。

 煎じ詰めれば、独ソ戦自体がドイツ第三帝国という国家が孕んでいた矛盾の投影そのものなのであり、どっちの作戦を取っても最終的にナチスドイツは崩壊しただろうというのが筆者の考えだ。きつい言い方かもしれないが、ドイツ頼みのいわば他力本願で英米開戦に踏み切った日本もまた、同じ運命をたどっただろう。

 ただ、このときヒトラーの容喙を退けて当初のOKHの計画どおりモスクワを陥としていたら、その世界の歴史では、原爆投下が日本ではなく、ドイツのどこかの都市になっているかもしれない。

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