振動について考えてみた。
「わたしという振動」
中学の頃、市民図書館で読んだある科学の本に、ガモフだったと思う、こんな感じのことが書いてあった。
「すべては振動でできている。私も振動だ。ガモフという振動が今、椅子という振動に坐っていて、テーブルという振動の上に置いてあるリンゴという振動を食べている。リンゴは体内でさまざまな栄養素という振動に変化し、……やがて私という振動は一生を終えるが、肉体が消えてもそれは炭素という振動に姿を変えて宇宙のどこかに漂っている……」(書名、著者名は忘失)
こんなだったと思う。
この世界のすべてが振動でできているというふうに考えたことがなかったので、新鮮さを感じた。そしてなぜか何の違和感もなくその宇宙観・生命観を受け入れていた。
そして心の中で「そうか、そうだったか」のようなことをつぶやいていたと思う。
サラッと読んだだけで、その本に他のどんなことが書いてあったのかすっかり忘れているのに、振動に関するこの部分だけははっきり覚えている。
読んだ後にクラスの友だちに言ってみた。
――なあ、俺たちこうしてるけど、ほんとはみんな振動なんだって。
――……へぇ、……いなげや寄ってかない?
“いなげや”とは中学校の近所にあったスーパーで、そこの中2階にテレビゲームが2台ほど置いてあって、よく遊んだのだった。
《この世界は音楽に満たされている》
最先端の物理学では、超弦理論(superstring theory, 別名超ひも理論)が“万物の理論”となる可能性があると言われる。この世界は粒々の粒子で構成されていると考えるかわりに、長さ1プランクスケールほどの弦がさまざまな波形で振動していて、それらが粒子のように振舞っていると考える理論だ。
難解な最前衛の学説をここで説明する能力も意図もないが、成人してこのユニークな理論のことを聞いても「あ、なるほど。そうだよね」ぐらいで、あまり衝撃を受けなかったのは、中学の頃に図書館でたまたまそれっぽい話を流し読みしていたからかもしれない。
ただ、ガモフ的な振動と超弦理論におけるひもの振動とはたぶん別物の振動だという見当はなんとなく付く。
超弦理論を解説しているテレビ番組などでは弦楽四重奏団が出てきてさまざまな音色をかなで、画面でいろんな旋律がビジュアル化され、それらの波形が各種の素粒子になって行く様子が映されたりする。
クォークや光子やグルーオンの音色をかなでるクヮルテットをアジア文化圏に移植したら、それは琵琶を持った弁財天、サラスワティにたとえられるかもしれない。この世界は音楽に満たされている。
世界は振動する弦という素粒子――のようなものでもあり、そのようなものでもないもの――で構成されている。
この弦は光を放出しないため、肉体の視覚で見ることができない。だから世界は見えない振動でできている。
intermezzo ―― 頓珍漢問答
ある意味で世界はなにかシュレディンガー的な空(くう)で満たされており、そこには数えることができないという意味で無数の波が、どこにあるというわけでもなく漂っている。
どこにも、なにもないという前提に立てば、空(くう)からなにか(物質的現象=色)が生じるとは、そこに位置が生まれることをも意味するだろう。
(いわばわたしたちは時間というわけではないけれど、その波と波とにたまさかあらわれては消えるという意味で存在しているようでもあり、存在していないようでもある。)
二重スリット実験では、わたしたちが観測した瞬間に、それまで波のように振舞っていた電子が一点に収束し、粒として捉えられる。
空(くう)には波が遍満している……どこにもないということは、どこにでもあるということだ。そもそも〈どこ〉はどこにあるのだろうか。
コギトはむしろ、わたしたちがそもそもいないことを証明しているように見える。なぜだろうか。
般若心経は“我思う故に我あり”の真逆から同じことを意図して、ついにはコギトの向こう側に突き抜けて行ったようにも見える。
“ gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā ” という祝福は、誰が誰に対して言っているのであろうか?
(この問いへの答えはすでに用意されている。だが必要なのは答えではなく問うことだ……
わたしがわたしに問いかけるという時、それはわたしの背中に向けて問いを投げているのだろうか?それともわたしがわたしの真正面に立ってそう問うているのだろうか?……ある人がわたしに投げやりな調子でこう言う「ではずっとそれを考えていればいいだろう」と。しかしその時すでにわたしは何も考えていない。空転する問いの意味を問うて、その答えを待っているのだ。
その行為こそが祝福に値する――「これが答えだ」とコギトの呟きが聞こえる。その声は先ほどわたしにぶしつけな言葉をかけた人物の声と同じ声色だ。
次に、これとは別の声の呟きが聞こえた、“智慧の完成に幸あれ。これは「完成とは永遠に完成しないこと」の謂いである。”
こうしてわたしはまた、まったく新しい問いのスタート地点に立たされた……)
観世音( Avalokita-svara アヴァローキタスヴァラ)の1つの源流
拙稿「 観自在菩薩 Avalokiteśvara①【仏典に関するメモ】 」でもご紹介したが、観世音の原型のひとつが、アショーカ王の時代の「Mahāvastu Avadāna (マハーヴァストゥ・アヴァダーナ)」という書物に登場する。
Bhagavān who takes the form of a Bodhisattva, whose duty it is to look round (Avalokita) for the sake of instructing the people and for their constant welfare and happiness.
(拙訳=菩薩の姿になった覚者の義務とは、人々を導き、人々の福祉と幸福のために周りを見回すことである。)
(Wisdom Library より。太字部分は筆者による)
太字の部分「 look around まわりを見回す」は、サンスクリット語ではアヴァローキタ avalokita という単語になる。
アショーカ王はたいへん熱心に仏法を広め功徳を積んだ。転輪王にふさわしい名君だ。
と同時に、インド亜大陸の統治者としても、仏法が広まって国民が心身ともに健全になってくれれば国が栄えるのだから、ありがたい。菩薩の義務に「人々の福祉と幸福のために周りを見回す」という社会貢献的な性格が付されているのは、そういう面を反映しているだろう。
菩薩のこうした社会的な任務のあり方が、法華経観世音菩薩普門品(観音経)に描かれる“世の中をあまねく照らし、あらゆる衆生に救いをさしのべる”という慈悲の菩薩像の原型になったのかもしれない。
慈悲とは、すべての生命をさとりに導くことを言う。
当ブログで何度か言及しているが、観世音菩薩(=観自在菩薩)は、もともとは「世界をあまねく自由自在に見渡す菩薩」といった意味で、特定の菩薩の名前というわけではなく、修行を積んですべての生命をさとりに導く能力を獲得した菩薩のことを指す。この能力を世俗では観音力と呼んだりするが、観自在力というほうがぴったりくる。
大菩薩はこのスキルを獲得し、如来となる。
観音経の詩頌21番で無尽意菩薩が観自在菩薩を「汝はみずから輝きを放ち」と讃える箇所があるが、
方便品の詩頌60番でお釈迦様が「仏たちは三十二の吉相をもち、みずから光明を放つのだ」と舎利弗に説いている場面がある。
直観的に言って、このふたつの詩頌は同じものを表現している。つまり観自在菩薩とは如来を意味する。
観自在力を獲得した菩薩とは如来のことだ。菩薩行が極まると、いつしかその姿は如来と重ね合わさっていくかのように見える。
このように観音経に登場する観自在菩薩(=如来)が、智慧の完成を説く般若心経にも姿をあらわしている。
般若心経の冒頭「聖なるアヴァローキテーシュヴァラ」と冠された菩薩で、この人はつまりお釈迦様。般若心経はなんと、お釈迦様が舎利弗に量子物理学の“粒の世界と波の世界”について教えている場面を描いたお経なのだった。
なにもない=すべて=形にならない=無限
お釈迦様は「三千大千世界を素粒子レベルにまで分解して分析しても、この世界の成り立ちを解明することはできないのだよ」と言っている。いっぽう、現代の科学者たちは二重スリット実験から「素粒子は粒のようでもあり、波のようでもある」と般若心経みたいな言い回しでこのへんの事情を説明している。
実際、般若心経の世界と二重スリット実験が示した素粒子の振る舞いとはたいへん似ている。(動画「 釈迦が語る二重スリット実験の解説!この世界は真空の中にある無限の観察できる空間の1つ! 」をご覧ください)
小宮光二氏による捕捉説明つきの朗読を聴きながら「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」などといった漢訳の文字列を眺めていると、“イチゼロ ゼロイチ”の量子的オンオフや、あるいは無が急に極大化して無限になったりする様子が浮かんできたりする。
(しかも無→無限というこれ以上考えられない大きな変化があったのにも関わらず、変化する前と後のビフォーアフターを比べてみても、なぜかその姿に少しも変ったところがないように見える……)
あるいはなにもないシューニャター(空)をよく見てみると、そこに見ることも数えることもできない妙なる波がかすかにさざめいているかのようだ。
真空のささやき 沈黙の雷鳴、
観測者が〈そこ〉に出現した瞬間、無として遍満していた波が一瞬のうちに粒に収束していく。こういった量子的な光景が、漢字の文字列の向こう側から浮かんでくる。
(斜体部分は小宮氏による補足説明の抜き書き要約)
色不異空
空不異色
色即是空
空即是色
「なにもないからこそ無限の性質が備わる
なにもないからこそすべてがあり
すべてであるということは形になり得ない
一即多」
是故空中
無色
無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色聲香味触法
無眼界乃至無意識界
「視覚から意識に至るまでことごとくなにもない
しかし五感を通すとあるように見える
あるように見えるだけである
その実体はじつに なにもない」
世界は妙なる琵琶の音がかき鳴らす無限の波に満ちている。それは肉体の感覚ではたしかに〈ある〉ように感じられる。だがその実体はじつに、なにもない。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
「真実の言葉がこのように説かれ、智慧の完成の心が終わった」
東方の妙音、西方の観世音
仏教では、虚空会から見て東方は妙音菩薩がいる無限の過去で、なんらかの位置を持つ観察者からすればそこに粒が〈ある〉ように見える世界だ(あるように見えてその実体はなにもない)。
妙音は世界に響く真実の言葉を意味する。無限の東方世界に満ちる真実の言葉を見抜く眼とはなにか?
西方は阿弥陀如来が左右に脇侍を置いて無量光を輝かせている“完成された世界”、浄土世界。塵ひとつない浄土、つまり物質的なものをすべて取り去った状態。無量光とは宇宙開闢の光で、現代の宇宙論ではビッグバンに相当する。
西方世界は完成された世界で、完全な対称性をもつ世界でありかつなにもない真空の世界だ。阿弥陀如来の脇侍の一方には観世音菩薩が立ち、観自在力を使って妙音の響きに満たされた世界の実相を見渡す。(参考動画「 世界の仕組み!真空、仏国土、転生輪廻世界! 」「 法話 観音と妙音 妙音の本当の姿が見えることが観自在力の完成!それがブッダである! 」)
このように東方の妙音菩薩と西方の観世音菩薩はカップリングになっている。
このシンプルな宇宙観をもう少し整理するとこうなる。
なにもない真空の完全な対称性の世界から自発的対称性の破れによってビッグバンが生じ、真実の言葉が無限の世界に拡がっていく。この拡がりを自由自在に誤りなく、あまねく見渡す力をもつ者は如来となり、みずから光明を放ち、人々を救い導く。
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