「観音さまのお姿を崇拝しただけで、必ずしも財布の中味がふえるというわけにはいきません」
松原泰道
金銀財宝を満載した船が遭難してラークシャシーの棲む島に漂着したり、罪科で処刑されそうになったり、高価な宝物を商うコンボイが盗賊や悪党の大集団に取り囲まれたり、あるいはまた須弥山の頂上から突き落とされたりと、わが観音経は人間が遭遇するかもしれないさまざまな苦難を描き出す。観音力を一心に念ずれば、絶対絶命の状況におちいったわたしたちを間一髪、観音さまは救い出してくれるのだ。
経文にあるように、観音様が救ってくれる場面設定はいずれも活劇風のテイストで書かれており、シンドバッド七つの航海やアルゴノート号の冒険さながらの、わたしたちの日常からは相当に乖離した奇想天外な状況が列挙されている――誇張した描写がなされる背景には言うまでもなく古代社会に生きる人々の感性や人生観・死生観がある。お釈迦様の口伝の言葉を後世の僧たちがサンスクリット語で言説化し経典を編纂した。その際に影響を与えたであろう西アジアの土俗的女神信仰にエンタメ要素がふんだんに盛られていたのも容易に想像がつく。
ひとつには、あえて冒険活劇のような奇想天外な舞台にすることで、現世の煩悩とドロドロした欲にまみれた人間世界の臭みを経文から抜くことができる、ということがあるかもしれない。
観音経が「月末までに口座に2億入れなければ」とか「あのルビーをなんとしても競り落とさないと」「長いこと探してた靴が見つかったから絶対買ってやる」などといったたぐいの、特定の誰かの物質的欲求を叶えることを目的としていないのは明らかだ。
月末要大金 口座二億円 念彼観音力 還者於本人
宝石商切望 紅玉竟競落 念彼観音力 応時得落札
という具合には行かない。欲望は「毒」として排除される仕組みになっている。基本的な設定として観音力は善なる心の善良な願い事を叶える方向に作用し、善なる魂がよき志をもってさとりに至ることができるよう、現世の険しい道を啓開し、魂を導くようにセットされている。欲の一時的解消を目指す性質のものではない。この意味での現世利益は(ときどきなにかの拍子で叶ってしまうこともあるようだけど)明確に否定される。
世俗では観音力を現世利益(または現世利得)に結び付けて「観音様がなんでも願いを叶えてくれる」などと言ったりするが、観音経は甘くない。救済は解脱が前提になっている。無限の慈悲がすぐ傍に降りていても、それを知るすべがなければ最上のさとりへの道程は開かれない。
漢文で経を読むお寺さんでは「七難三毒」などと説いているが、これは人々が最上のさとりに到達するために手放すべき数多くのネガティブなエネルギー(煩悩ともいう)を抽象化したものだ。サハー世界にはびこる膨大な欲。その個別の案件を列挙するかわりに物理的な苦難を一般化したものが「七難」。
《七難》①火難②水難③羅刹難(らせつなん 悪鬼による難)④刀杖難(とうじょうなん 武器による難)⑤鬼難(きなん 死霊による難)⑥枷鎖難(かさなん 投獄される難)⑦怨賊難(おんぞくなん 悪人による難)
「三毒」は精神的な苦悩や倒錯を3つに集約したもの。
《三毒》 貪・瞋・痴(とん・じん・ち)
この世の苦しみをいくつかの典型的なケースに分類し、整理したのが七難三毒だ。欲望に関する一種のユニバーサルデザインといえる。
日蓮宗のとある寺のウェブサイトには
心の修養を積んだものに対して、お釈迦様や菩薩は現世利益を与えてくれるということを忘れてはなりません。(1260年創立 日蓮聖人お立ち寄りの古刹 横浜市神奈川区 妙湖山 浄瀧寺)
などと書かれている。一般の人向けに分かりやすく書いていると思われるが、「利益を与えてくれる」というよりもむしろ「苦難を除去してくれる」とやったほうがよいのではと思う。
世尊偈の結句に「衆中八万四千衆生 皆發無等等 阿耨多羅三藐三菩提心」とある。
菩提に向かう発心を起こした菩薩がさとりに到達するまでに出会う現世のさまざまな障碍や苦難を取り除き、正しい方位に導いてくれるのが《慈悲》だ。
七難三毒のほかに「二求」というのもあってこれはよい子を授かりますようにと願う心を観音さまが叶えてくれる。七難三毒が煩悩や障碍を除去する機能なのに対し、こちらは与えてくれる方に作用する。お寺さんの説法によれば男の子が智慧で、女の子のほうが慈悲という産み分け。般若心経担当は男で、女は観音経を任されている感じになる。
繰り返しになるが観世音菩薩が衆生を現世の苦しみから救うのは解脱による。釈迦は霊鷲山で法華経を説く前に般若経を説いた。
全知者に礼拝す。聖なる観自在菩薩は深遠なる智慧の完成に努めながら、次のように見抜いた……
(般若心経冒頭部分)
般若経の真髄をミニマルに凝縮した般若心経。観世音菩薩がここでは「観自在」に名を変えて登場する。冒頭「全知者に礼拝す」から“如来の真実の言葉”に到達するまでの「さとり」のプロセスが、真空の論理によって驚異的な展開を見せながら進行する。冒頭部分に続き、明滅する「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」のシークエンスを経て「ガテ、ガテ、パーラガテ、パーラサンガテ、ボーディ、スヴァーハー」に結するまでの心経の過程こそが、おそらくはわたしたちがこの世界で体験できる“時間”だったのではないか。つまりそれは空だ。
如来の真実の言葉を真に受け止めたならば、わたしたちはさとりに至ったのだ。
般若の真髄を読みきったとき、つまり真にみずからを生きたとき、わたしたちは智慧の完成に到達するだろう。
般若心経を読み終えたとき、わたしたちは彼岸にいる。久遠の叡智の大河のほとりで、わたしたちはさらなる融通無碍の世界に出会う。それは一人ひとりのわたしたち自身の鏡像でもある。
大河のほとりに立つわたしたちは、自分たちがなすべきことすべてを知っていた。
この世界に仏法が出現して二千数百年が経過している。人類はこの短い経文を読むのにこれほどの時間を費やさなければならなかったということなのか。あるいはまだ読み終えていないのか。
真実の言葉 Māntra マントラ。世では“真言”と呼ばれる。原始教団ではいくつかのケースを除きマントラを唱えることはない。本稿では日本で流布する真言のあり方を問わないが、心経内部に響いたマントラが「如来の真実の言葉」そのものだということは疑いを容れない。
それゆえに知られるであろう、「智慧の完成」における偉大なる聖句とは、偉大な智慧の聖なる言葉、このうえない聖なる言葉、比類なき聖なる言葉なのだと。
聖なる言葉とは如来の説く教え。
般若心経は聖句「ガテ ガテ パーラガテ パーラサンガテ ボーディ スヴァーハー」で終わる。こののち釈迦は経王、法華経を説くのだが、心経(小本)終結部のこの時点で観自在菩薩はすでに釈迦如来と重ね合わせの状態になっているようにわたしには見える。
心経大本によれば、観自在菩薩が聖句を唱えたのち、世尊が
その通りだ、その通りだ、立派な若者よ、まさにその通りだ、……
(『般若心経・金剛般若経』「解題」岩波文庫より)
と観自在菩薩を祝福する。これに近似した風景は法華経の神力品、勧発品など彼処で見受けられる。同じシーンがそれぞれに変化し、お互いに相互作用しあって融合し、重なりあって写っているように見える。
そして観音経「世尊偈」の詩頌20、21、22では、飛翔するまばゆい観世音菩薩の姿が如来の描像といつしか重なり合っているようにも見える。
これらの事象はすべて空であって、観音力はこのような場ではたらく力だ。
般若心経で「照見五蘊皆空」と真実を見抜いた叡智の光は、観音経において「普明照世間」と、世をあまねく照らし、人々を癒し導くともし火になって輝いている。
この輝きこそがわたしたちの心に叶う観音経の現世利益なのではないだろうか。
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