法華経、観世音菩薩普門品。サマンタ=ムカ。
アヴァローキテーシュヴァラには観自在菩薩、観世音菩薩、聖観音などさまざまな呼び名がある。どうしてそうなったのだろうか。
観世音菩薩の場合は、アヴァローキタスヴァラで、
観自在菩薩の場合は、アヴァローキテーシュヴァラ。
スヴァラとイーシュヴァラの違いがある。
あらゆる事象が波になった世界
観世音菩薩の場合 → avalokita-svara アヴァローキタスヴァラ。観世音菩薩は鳩摩羅什による中国訳だ。
岩波文庫『法華経』の注釈で岩本裕氏はアヴァローキテーシュヴァラの語から「観世音」という訳語は導かれないとしたうえで、
中央アジア方面出土の古写本の断簡にアヴァローキタ=スヴァラ Avalokitasvara の名が見えるが、スヴァラ svara という語が「音声」を意味することから、これが「観世音」の訳語のもとになったことが知られる。
と説明を加えている。観世音という訳をちょっとだけディスっている感じがする。写本が原本を書き写し間違えてしまった可能性を示唆しているかも。
原本 → アヴァローキテーシュヴァラ Avalokiteśvara を、
写本 → アヴァローキタスヴァラ Avalokitasvara に写し間違えた?
アヴァローキタは、「下にあまねく見回す」という意味で、スヴァラは、「音」という意味になる。というわけで、“世界の音をあまねく見回す者” という意味になる。
音を見るなんて普通に考えるとおかしいけれど、音波を波形にして観る、というサイエンスな感じが出てくるので、悪くない漢訳だとわたしは思う。訳出にあたりスヴァラを採った鳩摩羅什のセンスはすぐれている。
実際、宇宙科学者は「わたしたちは星の音を見るんです」と言ったりする。
また、現代の天文学は観測技術の精度が良くなって、重力波を何度か捉えることに成功している。宇宙空間を波が伝わってくるというわけだが、宇宙には空気がないので音として人間の耳には聞こえない。でも科学技術を使えば、キャッチした重力波の波形を“見る”ことができるし、それを音に変換して重力波を“聞く”こともできる。それは不思議な音がする。
重力波だけでなく、太陽系の地球や木星が出している電磁波などを音にして、惑星の音を聞くこともできる。
ブラックホールの音というのもあるが、ブラックホールの周りはガス雲が取り巻いていて、波形の変換とかではなく、実際にそこで響いている音波を聞ける。ものすごく不気味な音だ。
アヴァローキタスヴァラとは、世界の音を観る者であると同時に、世界の音を聞く者。だから、
観世音菩薩のワールドでは、あらゆる事象が波になっていて、それを観たり、聞いたりすることができる、というわけだ。
9次元から世界を見渡す自在者
次に観自在菩薩、アヴァローキテーシュヴァラをシンプルに訳すと、 ava-lokita-īśvara =「下にあまねく―見回す―自在者」となる。
「観自在菩薩」は玄奘三蔵による中国訳だ。玄奘三蔵も鳩摩羅什訳の「観世音菩薩」に対して批判的なようだ。
スヴァラが“音”なのに対してイーシュヴァラは“自在者”という意味。
他化自在天のことをイーシュヴァラと言ったりする。他化自在天とは仏国土のことで、スピリチュアル的に言えば9次元に相当する階層構造の中のひとつのレイヤーだ。
大自在天(マヘーシュヴァラ)というのもあって、仏教の人がシヴァ神をこう呼んでいる。
ただそれだけでなく、イーシュヴァラという語彙にはたくさんの意味や用例がある。
「強力な」「有能な」「王、王子、統治者」「お金持ち」「夫」「最高神」「愛の神、キューピッド」「至高の魂」「お金持ちの女性」「宇宙の最高支配者」などなど。偉大な人や、とにかくすごいもの、といった意味合いを感じる。
(ご参考: 観自在菩薩Avalokiteśvara②【仏典に関するメモ】 )
また、山中元氏はアヴァローキテーシュヴァラを「観世能」と訳している。世界を見渡す能力、という解釈。
山中氏は『サンスクリット文法入門』(国際語学社、2004年)の中で、
元来、観世能は西アジアの愛の女神であったと思われるが、バラモン教のシヴァ神に対抗して仏教側で作ったといわれる。
と指摘している。
ということで、以上を総合したアヴァローキテーシュヴァラのわたしなりの日本語訳は
“至高の愛と魂で宇宙を高次元から見渡す自在の能力を持つ”
という意味の形容詞になる。アヴァローキテーシュヴァラの意味は観世音でも観自在でも表現しきれない、という結果になったが、どちらかというと観自在のほうが近いので、便宜的にそちらを使っていきたいと思う。
また、観自在菩薩は般若心経にも出てくる智慧の求道者だけど、女神性や慈悲の菩薩としての性格付けがなされている面も意味としてしっかり押さえていきたい。
(ご参考: 観自在菩薩 Avalokiteśvara①【仏典に関するメモ】 )
観世音、観自在どちらも必要だから残った
古い経典、聖典はさまざまな書き換えや改編、あるいは散逸したり、後で付け加えたり、間に挿み込んだりと、文献学的に調べればいろいろ出てくると思う。
原典が日本語など他言語に翻訳される過程でそれなりのニュアンスのゆがみも出てくる。これは不可避だ。
仏教経典の場合は、お釈迦様が声に出して話したパロールが弟子たちによって暗唱され、代々継承されていき、それがサンスクリット語に言説として定型化し、それが今度は古代中国に渡って中国訳され、それが日本にお経として持ち込まれた、という経路をたどっている。
古代インド宗教における教義の口伝継承は非常に精確だったことが学術的に証明されているけれど、それ以外の継ぎ目ポイント、特に、きわめて豊かで独自の思想を発達させた古代中国での仏教解釈は、それなりに古代中国の思想の影響を受けていると考えておく必要がある。
また、お釈迦様が語ったひとつの言葉の意味を、漢訳ではどうしても写し取りきれないところもあったと思われる。見てきたようにアヴァローキテーシュヴァラがまさにその例だ。観世音と観自在の意味を両方合わせて、その上にもっと盛らないと真意に届かない。
それがさらに独特の文化を持つ日本社会に浸透していく過程で、日本独自の仏教文化が花開いてしまい、いわゆる「似たような教え」がどんどん伝播していってしまうわけだ。
ある時、新約聖書の福音書について考えていた時、「もしかして、イエスキリストの言葉のすべてが伝わっていないのかもしれない。隠されたイエスの言葉や、記録されても散逸したテキストがあるんじゃないだろうか」とふと思ったことがある。
その時、頭の中である声がつぶやくのが聞こえた、
「必要なものが残った……」
と。
おそらくは、膨大な量にのぼるさまざまな仏典も、今この世界に必要なものが残され、継承されてきた。逆に“必要だから残された”ともわたしは感じる。さまざまな改編や付け足しも、必要だからそれが起きたと。
観世音菩薩普門品は法華経の中にかなり後期に合編されたという(前出の山中元氏による)。その内容について研究者たちは
「文脈の整合性の都合で後世になって一行が付け加えられた」とか、
「構成上明らかに不自然な嵌入が見られる」などといった評価をしている。
また植木雅俊氏は、岩本裕氏のサンスクリット語→日本語の訳は間違いが多いとして自著『梵漢和対照訳・現代語訳法華経』(岩波書店、2008年)で数多くの誤訳を指摘、翻訳技術を問題視したりしている。
それらはアカデミックな立場からは必要な批判だ。しかし、いっぽうで“世界は何をわたしに伝えようとしているのか”という立場で聖典を読み直すとき、こうは考えられないだろうか?
「どれも必要でこうなった。どこか不自然に感じられたらそこが大事なところだよ、もう一度大きく見てみよう」
と。
もともとは“観自在”だったのかもしれないが、経典が伝播していくある過程でイーシュヴァラがスヴァラに変化してしまって観音に変わったのだとしたら、それは後世にそのことを世界が伝えたかったからだ。
“存在界を波動としてとらえ、高次元からそのすべてを自在に見て、聞く”という能力の意味を伝えるためだったのだと。
観音経の詩頌のエンディングが唐突に阿弥陀如来賛歌に変容してしまうのはいかにも不自然かもしれないが、急に差し挿まれたかのようなこの部分は、わたしにいま何を伝えるために、古代においてそのような操作がなされたのか、そのことを思って読み直すべきだ。
そうすれば、西方の光り輝くエネルギーに満ちた浄土世界と、東方に融通無碍に広がる無限の物質界との対称性を視野に収める広大な立ち位置を獲得できるかもしれない。(アヴァローキテーシュヴァラのパースペクティブは実はこれだろう。この世界は E=mc² のようにも見える!)
また、翻訳上の誤解や翻訳者の能力の不足が、古代の聖典の意味を決定的にねじ曲げてしまったのだろうか?――答えは“否”だ。
宇宙形成のパラメータが驚くほど繊細であるとしても、この膨大な宇宙、存在の世界の巨大な法則に比べて、地球という惑星上で人間が思いついた何種類かの言語同士のニュアンスの違いが、どれほどの影響を持つというのだろう?
宇宙の管理者たる全知者は「それがすべてではない。大きく見てごらん」と答えてくれる。
新たな聖典
わたしの魂が必要とするならば、その時、その好機に、新たな聖典があらわれるだろう。
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