ここに自由にふるまう猫がいたとしよう。この子が家の中のどの一点に位置を持っているかを確定することは不可能だ。ソファ上の一点に、ベッドの下に、ハードディスクの横に、あるいはまたカーテンレールの上に、紙袋の中に、段ボールの中に、あるいは本棚の脇にある考えられないような小さな隙間に、そしてまた飲み水を入れてある小皿の前に、窓際の陽だまりに、家の中でもとりわけ風通しの良い廊下の真ん中に……。だが観測者がこの子に目を留めるやいなや、その動きはぴたりと止まる。猫の位置は観測された一点に収縮するのである。目を丸くしたその子の頭の上にかわいらしい「?」が浮遊しているのを、観測者は同時に見出すだろう。
だがこれに対し異論を唱える者もいる。今述べたのは猫が人目を気にするタイプだったパターンについての記述だ。たしかに、人間に観測されない限り、その子は気兼ねすることなく自由に動き回る。しかし猫は人間の予想以上に繊細で、人間にいつも配慮しながら生活していることを考慮する必要があるのではないか。飼い主に見られたら、その子は自分を見た相手に気を遣って「にゃ?どうしたの?」と立ち止まらざるを得ないではないか、という主張だ。
ではここに、そうではない猫、気を遣わない猫がいたとする。この子は人間に対してなにがしかの配慮をする性質を持たないため、もはやなにも制約がない。人間に観測されていようがいまいがそんなことにはお構いなく、昼寝したり、ご飯をたべたり、あくびしたり、昼寝したり、毛づくろいしたり、ご飯を食べたり、昼寝したり、壁を引っ掻いたり、あくびをしたり、昼寝したり、人間の目に見えないなにかと遊んでいたり、昼寝したり……。この子が次にどのようにふるまうのかはこの子のそのときの気分に依存する。この場合、猫が取り得る行動について観測者が予測を立てることは不可能なのだ。
聞くところによると、量子論の世界では素粒子たとえば電子には複数の状態が共存しており、そのような性質を持つ電子は、ひとつひとつそれぞれ異なる位置にあるという状態が重なり合っているのだそうだ。この考え方によると、どうやらひとつの電子の位置は同時に無数にある。だが人間が電子を観測するやいなや、その観測した時点での電子の位置は、観測されたその一点に決まってしまう、というのだ。量子論の世界ではこれを”波の収縮”と言うそうだが、猫の世界ではそうした小難しい理屈を並べ立てるまでもなく、冒頭で述べたように、そんなことはごく普通の出来事に過ぎない。猫はどこかにいるけれども、どこにいるというわけでもないし、そこにいると予測した途端、あっちにいる。でも決まった時間になると必ず台所の特定の場所で観測される。人類は月面に到達したが、猫の動きを予測することはできないのである。
シュレディンガー(1887-1961)は箱の中に猫を入れて観察しようとしたことで世界的に知られているが、猫にしてみれば迷惑な話というほかない。この思考実験をめぐる最大の問題は、箱の中に毒ガス発生装置が仕込まれていることだ。あるパラレルワールド(仏法では阿僧祇世界と呼ぶ)の中では、一部の急進的な動物愛護団体の運動によってシュレディンガーの社会的名声が大きく毀損されているかもしれない。その世界のウィキペディアでシュレディンガーを検索したら、真っ先に愛猫家たちとの抗争についての記事が上がっているのは想像に難くない。……取り急ぎ付言しておきたいが、筆者はニャンコ至上主義ではない。猫と人間はこの世界を生きるための大切な友だちなのであって、ニャンコが絶対的上位にあるとは思わない。ニャンコは人間より少し偉いだけに過ぎない、いや、……かなり偉いかもしれない……。どうであれ、思考実験の中に毒ガスを持ち出すのには筆者は反対の立場を取りたい。この点において筆者はカルロ・ロヴェッリを全面的に支持する。
シュレディンガーの猫に関するこの問題について「これは思考実験に過ぎない。話をセンセーショナルにして、人に深く印象付けることを意図して猫と毒ガスを持ち出しただけなのだ」と彼を弁護する向きもあるだろう。だがはっきり言っておく。思考は現実化するのである。思った途端、無数にある多世界のどれかひとつで、その思いは現実のものとなっている。その故に、人間が往々にしてやりがちなこうしたよろしくない考えや想像は、すぐにキャンセルした方が良いとされているのだ。
あるいはまた、なにかの拍子で猫とシュレディンガーが取り違えられた世界が存在する可能性も否定できない――このように筆者が考えたとする。だがこの場合、そんなパラレルワールドや、そこからさらに派生する全パラレルのどこを探しても、箱の中に毒ガスが発生する装置は見当たらないのだ。そのかわりに、眠り薬発生装置が置いてある世界や、粒子放出が起きたら箱の中でブーブークッションが作動する世界、あるいはチャオチュール供給装置が作動する世界、ベートオヴェンのシンフォニーが鳴り出す世界、フレディ・マーキュリーが4オクターブでシャウトする世界、身を入れるのにちょうどいいクラフト紙袋が出てくる世界、ジョン・ケージの 4′ 33″ が始まる世界、都はるみのこぶしが回り出す世界、いや、かつお節自動削り器が作動する世界、サバ缶自動こじ開け器が動き出す世界、いやアロマディフューザーが作動する世界、そこにカモマイルが入っている世界、ラベンダー、ローズマリーの世界、フランキンセンス、ベルガモット、煮干し、サンダルウッド、マタタビ香水、クラリセージ、ローズゼラニウムの世界、等々、猫もシュレディンガーも心地よくなるもの(ときどき共存しにくいケースもあるようだが)が入っている世界しか存在しない。
筆者がそう考えたからそうなった。世の中は欲と執着が絡まって一見ドロドロだが、じつはこの宇宙はわたしたちが思ってるほどワルではない。多少量子論っぽく言えば、この世界は悪意よりもやさしさの共存度のほうがちょっとだけ高いのだ。
シュレディンガーの箱の中に入っているものは何なのか、そしてその中ではどのような猫の多様性が、観測者が考え得るかぎりのシステムにおいて展開されているのかを考えてきた。このことによって提示されたニャンコの描像が、眠っているか/起きているかだけの単純な姿でないことは明らかだ。見てきたように、箱を開けると猫は昼寝したり、ご飯をたべたり、あくびしたり、昼寝したり、毛づくろいしたり、ご飯を食べたり、昼寝したり、壁を引っ掻いたり、あくびをしたり、昼寝したり、人間の目に見えないなにかと遊んでいたり、昼寝したりしている。昼寝しているときの共存度がどうしても高めの設定にされてしまう感はあるが、箱を開ければ多様な姿で人間を楽しませてくれるのには違いなかろう。ともあれここで、シュレディンガーではなく”わたし”の箱について考えてみたい。
その箱の中には言うまでもなくモフモフクッションが敷かれていて、飲み水や、適度な量のごはんやチュールが供給されるシステムがあり、ほのかにマタタビの香りが漂っている。そしてそこに入れられたのはミネルヴァの猫なのだった。
ミネルヴァの猫はたそがれどきに目覚める……
なぜなら猫は日中寝てばかりいたからである。これがちゃんとしたフクロウだったら箱から飛び立って、古い言い伝えどおりに、昼間のあいだに人間たちが侵した数々の失敗や間違いの事例を収集し、明日への教訓に役立てるところだ。だが目覚めた猫が箱の中でなにをしているかというと、昼寝したり、ご飯をたべたり、あくびしたり、昼寝したり、毛づくろいしたり、ご飯を食べたり、昼寝したり、壁を引っ掻いたり、あくびをしたり、昼寝したり、人間の目に見えないなにかと遊んでいたり、昼寝したり……
箱を開けても開けていなくても、この子はそうする。箱を開けても開けなくても、あなたが見てても見てなくても、わたしは大丈夫とでもいうように。そう見えるように、「お構いなし」にふるまって見せる。
もしわたしが猫の真似で「ちょっとそんな気分になった」といった他愛ない理由を付けて、しばらく箱を開けなかったとしよう。そのとき猫は、箱の内側から量子トンネル効果かなにかで勝手に外に出て、さっさとどこか散歩に行くに違いない。きっと帰ってくるだろうけど、その確率は猫の気分に依存する。
この世界について人間が知り得ることは、ごく一部に過ぎないのだろう。まさにその故に、猫は人を謙虚にさせるのだ。
【参考】
『量子力学が語る世界像 重なり合う複数の過去と未来』 和田純夫(講談社1994年)
『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』 カルロ・ロヴェッリ、冨永 星訳(NHK出版2021年)
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