無限と無、永遠と今、粒子と波動【釈迦が語った虚空関数】

存在の正しい法則

 

ひとつの視点からは時間的な無限に見えるものが、もう一方の視点からは空間的な無限に見えるのです。
アレキサンダー・ビレンキン

 

 

肉体を持ったお釈迦様の地上での最後の言葉がシュレディンガー方程式を語っているように思えることがある。

生じたものはすべて、滅することを性質とする……
(vayadhammā saṅkhārā … …)

 

仏法が説き明かす“粒であり波である”この世界の成り立ちを、お釈迦様が如来としての人生を締めくくる集大成の一言に選んだかのように。

 

無限と無、永遠と今、実在と非-実在、粒子と波動……量子はあまねき空間に可能性として遍満している。

量子よりもはるかに巨大な系である人間または微細な塵、水滴と鉛、蝶、箱の中の猫、山脈、流星、銀河群、島宇宙……これらもまた量子的可能性の集合体だと考えられないだろうか?

 

 

法華経如来寿量品をめぐるさらなる思惟の旅を試みたい。

 

(本稿では聖典について種々言及するが、それらはいっさいの教義に対する解釈ではなく、叙事詩や物語としての吟味であることを申し添えておきたい)

 

如来寿量品《空間的な無限性から時間的な永遠性への置き換え》

如来寿量品の冒頭には、化城喩品にも登場するお釈迦様得意のたとえ話“原子の塵を一個ずつ置く男”が出てくる。このたとえ話が興味深いと思うのは、空間的な量の無限性を描いていると思っているうちに、

「良家の息子たちよ、世は汝らに告げ知らせよう。どのように多くの世界があろうとも、かの男が微粒子を捨てた世界にせよ、捨てなかった世界にせよ、それら幾千万億という世界のすべてに、どれほど多くの微粒子があったとしても、その数は余がこの上なく完全な「さとり」をさとって以来の幾千万億劫の数に及ばないのだ」
(法華経如来寿量品より)

と、時間的な量の無限性の説明に変わっているという点だ。空間的な無限性をさりげなく時間的な永遠性に置き換えている。

そんなこと、どっちも数の大きさをたとえているだけなんだから同じことじゃないか、細かいことに目クジラ立てるなよ、と文句を言われそうだが、せっかくこの3次元世界という時空のしばりの中に転生してきたのだから、この点にこだわっても時間の無駄にはならないと思われる。むしろこういうことを考えるためにわたしたちはわざわざここに生まれてきたのではなかったか。

こういう、わけの分からないことのために。

 

菩薩たちの先頭を切ってお釈迦様に問いを投げかけたマイトレーヤは「世尊よ、その数は心の届く範囲を超えています。これらの世界の大地の粒子の数は測り知れないのであります」と言っている。そこにはもう考えが及ばないのだと。

ただ如来寿量品におけるマイトレーヤのお釈迦様への答え方は、かなり冷静で理知的なようにわたしには読める。

 

 

この世界のすべての事象は粒子ではなく波動

仏教の空間であれ時間であれ、無限の大きさを阿僧祇や那由多などの数でたとえている場面について、世に出版されている解説書で「想像を絶する数」だとか「その巨大さに圧倒される」、「もはや考える気にならない」などと書く巷間の研究者は多い。

マイトレーヤは「その数は測り知れないのです」とお釈迦様に答えた。マイトレーヤと巷の仏教研究者らは同じことを言っているように見える。だが仏教研究者らが言う「もう考える気にならない」と、如来寿量品におけるマイトレーヤの「心の届く範囲を超えている」とでは、明らかに指し示すものが違っている。

巷の法華経解説書の中には、化城喩品の巨大数と如来寿量品のそれとを併記して、「如来寿量品では、化城喩品とは比較にならない長さの時間が描かれている」と書いているものがある。だがそれがどんなに大きすぎてわけの分からない数量だとしても、数値として表され得る限りそれは有限だ。そして比較できるのである。現にこの解説者は「比較にならない」と自分で書いておきながら両方を比較したうえで「化城喩品よりも如来寿量品のほうがスゴイ」と、一方に軍配を上げるという自己矛盾に陥っている。

(じつはこの読み方はお釈迦様の説法の意図にかなっている。だがそこだけにフォーカスした読解では、如来寿量品という特異な経文が描き出す量子的世界像を読み落としてしまう……)

 

このあたりに時空=タイム-スペースという束縛の中に生きる人間存在の思念の限界を感じざるを得ない。如来の叡智の無限性、永遠性が説かれているこの局面で、光速を超過できない有限な世界観に囚われてしまっている。

わたしなりに言えば彼らの思考は光速を超えていない。特殊相対性理論の支配下にある。アインシュタインがブラフマンの世界に届きそうな長い舌を出してにやけている例のポートレートが浮かんでくる……

彼の愛に満ちたつぶやきが聞こえてきそうだ「きみたちには分かりっこないよ!」と。

 

お釈迦様の語る“原子の塵を一個ずつ置く男”の比喩は、「この世界のあらゆる事象は、粒子で構成されているわけではないのだ」ということを言い表している。世界をいくら細かく分割して粒の数を数えたところで、真の叡智にはたどり着かないのだよ、と言っている。

この世界が粒の世界ではないとしたら?

 

量子論はそれを波動だと答えているように見える。

 

“ミロクの問い”への最終的回答は普賢菩薩勧発品に

(如来寿量品は「お釈迦様の寿命が永遠であることを説いている」というよりも「なぜ如来の寿命が永遠なのか?それが世界に何をもたらすのか?について説いている」のではないだろうか。永遠の性質とその必要性を説明しているものだとは?

「如来は常に衆生をいかに教化するか心を砕いているのです」というふうに読むのならそれもいい。だが如来寿量品はむしろこの世界を生き抜くための“魂の実践論”なのかもしれない?

つまり、わたしたちの魂に必要なものは永遠なのだと。

永遠の生命だと。)

 

なぜ如来の寿命は無限なのだろうか?それが何を生むのか?どのような展開を生んで行くのか?

このように問うとき、従地涌出品においてマイトレーヤが問うた「地涌の菩薩たちはどうやって生まれたのか?」に対するお釈迦様の答えが、如来寿量品では一部分の開示にとどめられていることが分かる。

弥勒の問いに対するお釈迦様の最終的回答は普賢菩薩勧発品まで持ち越される。

 

 

分別功徳品《物質から精神への功徳の跳躍》

如来寿量品の次に置かれている分別功徳品の導入部では、くどいほど各種サイズの世界を微細な粒子に細分化し、量子化したうえで、そのエネルギー量をこの上ない完全な「さとり」に到達するまでの転生回数に置き換える記述が反復される。

「小さな世界>四つの四大洲>三つの四大洲>二つの四大洲>四大洲」と、世界の大きさが小さくなるにつれて、最上のさとりに到達するまでの転生回数も「八回→四回→三回→二回→一回」と減少する。空間的な減少と時間的な減少が同じ関係にある。

この記述の直後に描かれる展開も仏法の永遠性をダイナミックに描出しているのだけど、くどくなるのでここでは省略。

このように分別功徳品冒頭では、如来寿量品で説かれた如来の永遠性という主題が引き継がれ、それが空間的無限と時間的無限との相関性のモチーフに変奏、展開されていく。

続いてお釈迦様はさらに興味深い説法を披露する。第二のモチーフ“物質から精神への功徳の跳躍”だ。

良家の息子や娘が解脱の極致を目指して、布施、持戒、忍辱、精進、禅定と、智慧を除く五種の波羅蜜を実践したとしても、如来寿量品を完全理解することで得られる功徳には到底及ばないのだ、とお釈迦様は語る。

法華経編さん当時インドでは塔という物体を拝むストゥーパ信仰が盛んだったが、分別功徳品は「そうではない」と言っている。食べ物や衣服や僧院を寄贈するより、如来の説く教えを書写し、記憶し、読誦する者の測り知れない功徳の尊さを説いている。

物で供養するよりも、経典を記憶し、書写し、読誦し、説き広めよと。

物質としてのストゥーパを立てるのではなく、自らの精神の内なるストゥーパを建てよと。

 

そのためには五種の波羅蜜では足りない。智慧(プラジュニャー prajñā)が必要なのだと。

 

 

般若心経が描出するシュレディンガー世界

智慧。般若波羅蜜、プラジュニャー・パーラミータ。膨大な般若経典のエッセンスをミニマルに凝縮した『般若心経』は仏法の基礎とされ、学びの門前に途上に、そして終着点に、いつでも、それはある。

自らの精神の内なるストゥーパを建立するには、智慧の完成=般若波羅蜜が不可欠だ。

色不異空。空不異色。
(真空エネルギーが仮想世界を生み出す。)
色即是空。空即是色。
(粒子は波動だと真空は悟る。)

そのごく一部に対するわたしなりの解釈だが、このように、般若心経はシュレディンガー的な波の世界を描いているように思えてならない。

冒頭に置いたお釈迦様の言葉に立ち戻ろう、

 

vayadhammā saṅkhārā…

粒子は波動であるという真空のさとり。

それはお釈迦様が生涯最後の言葉「生じたものはすべて、滅することを性質とする」に託した教えではなかったか?

 

お釈迦様は続けて弟子たちにこう呼びかけてから、入滅した。

 

 

appamādena sampādetha

“全創造世界を完成せよ”

 

 

 

【参考】
『法華経』(岩波文庫。1967年)

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