「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時がくる」
(ヨハネ4:23)
ルナンは『イエスの生涯』の中で「仏典の中に、福音書の比喩と全く同じ形式で同じことを言っている箇所がある」と指摘している。もっともそれがどの部分なのかを彼は書き記さずに「仏教にも発生期のキリスト教にも、温雅で奥深い精神が共通してあったということ、両者の類似を説明するには、それで十分であろう」と述べるにとどめている。
いったいそれはどこなのか。気になるところだが、小宮光二氏『真訳 法華経』の中には、マタイ福音書5章のイエスキリストの言葉が、『法華経』薬草喩品における釈迦如来の言葉とまったく同じだ、という意味のことが書かれている。聖書の次の箇所がそれだ。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
(マタイ福音書5:45より)
ルナンが言ったのがこの箇所かどうかは不明だが、イエスのこの言い回しと釈迦の言葉の両者がまったく同じ表現になっているのは見ての通りだ。また、この部分だけでなく、福音書と法華経は言い回しが非常に似ているところや、たとえ話の使い方や考え方が共通している箇所が多い。他にどんなところが似ているだろう。
(本ブログでは種々の聖典について言及するが、それらはいっさいの教義に対する解釈ではなく、叙事詩や物語としての吟味であるということを申し添えておきたい)
みずからの肉体を「世の光」に変えた一切衆生喜見菩薩
薬王菩薩本事品。「一切衆生喜見菩薩が身体を燈火とした焔によって、八十のガンジス河の砂の数にひとしい世界が光り照らされた」とある。この様子を仏たちが「これこそ如来への真の供養」だと称賛する場面だ。
自分の体に火をつけて燃やす焼身供養は誇張表現に過ぎない。肉体に火をつける前に何年も油や香木を飲食し続けるという極端な描写が、一連のオーバートークを示唆する役割を果たしている。法華経がここで、実際に体を焼くことが真の供養だと言っているわけではないのは明らかだ。また、小宮氏『真訳法華経』は「供養するという言葉の意味」について、「生まれ変わってその世界での如来のもとで法華経を学び広めること」と注釈を加えている。(p51)
「みずからを燈火として教えを広める」というこうした菩薩行のあり方を、“みずからが私心を捨てて教えの体現者となる”というふうに読み直すこともできるだろう。この箇所はマタイ福音書5:14「あなたがたは世の光である」にはじまる一連の教えとたいへん似ている。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
(マタイ福音書5:14-15)
一切衆生喜見菩薩が身にともした光が八十のガンジス河の砂の数の世界を明るく照らしたように、イエスもまた弟子たちに「あなたがた自身が光となって、すべてを明るく照らし出しなさい」と諭しているかのようだ。続く16節では「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とイエスは説く。なぜ輝かせるのかというと「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と。
これは純粋に“正しい父の教えを広めなさい”という意味であろう。つまり、ここでイエスが弟子たちに説いた「あなたがたの光」とは、一切衆生喜見菩薩が身体をともし火にした「如来への真の供養」と意味的に響き合う、というふうに読み取ることができないだろうか。
ルカ“あなたの内なる光が全身を輝かせる”
次にルカ福音書から引こう。
「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
(ルカ11:34~36)
みずからの内なる光が全身を輝かせるのだということが説かれている。身体全体が光り輝くさまは、法華経に登場する多くの菩薩たちにも共通するものだ。従地涌出品に現れる地涌の菩薩たちもそうだし、妙音菩薩がサハー世界に降り立つときも「体が金色に輝き」ながら登場してくる。そして一切衆生喜見菩薩もまた、
「この真実の言葉によって、わたしが如来への供養のために自分の腕を捨てたとき、わたしの体は黄金色となるでありましょう。」
(『法華経』岩波文庫より)
と、私心を捨てて真実の言葉に帰依したときにその全身を光り輝かせる。
どうだろうか?このふたつの聖典は、少しばかり違う言い回しを使いながらも、“神を信じるものが自然に放つ全身の輝き”という、同一の出来事について語っているかのように読めてしまう。
もし右の手があなたをつまずかせるのなら……
ここで、一切衆生喜見菩薩が「自分の腕を捨て」て供養したという事案について。法華経は編さん当時のインド社会の宗教的トレンドを意識し、ダメなものは容赦なく切り捨てるいっぽうで、よい考え方や習慣は頭ごなしに否定せずに柔軟に取り入れていく姿勢を示している。各章では、人々がさかんに物品や財産、不動産、奴隷などを喜捨し、ストゥーパをうやうやしく礼拝する様子が描かれる。古代インドの宗教人らの生活風景が見えてくるようで興味深い。自己の肉体の一部を毀損して一種の宗教的境地に到達しようとする宗派もあったと思われる。
法華経は、物による物質的な帰依やストゥーパを崇拝するという、その頃のインドの人々のこうした宗教的風俗・習慣を大きな視点からまずは俯瞰し、多くの衆生に向け大乗の教えの門戸を前広に開いていく。そのうえで「だが、モノによる供養は、経典を学び、理解し、それを書写し記憶し、周りの人々に教え広めるという供養のしかたには到底及ばないのだよ」と教え諭す。
また、薬王菩薩本事品で反復して語られる自分の肉体を捨てる行為やストゥーパ礼拝の意味について、小宮光二氏は2020年8月22日のユーチューブ動画で「肉体よりも精神のほうが大事。肉体の価値は精神よりも下位。ストゥーパとは人間精神の次元を意味している」と解説している。モノという物質的で肉体的な、いわば3次元的な事象に縛られた供養のしかたを乗り越えて、より高次な意識次元、精神の次元での供養を行うことこそが、真の供養なのだということだろうか。
さて、自分の片腕を燃やすという比喩によって「真の供養」の意味を明らかにした一切衆生喜見菩薩。この箇所はマタイ書の次の言葉と意味的に通じ合ってるような感じがする。
「もし、右の手があなたをつまずかせるのなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(5:30)
「地獄に落ちる」とは物欲に取りつかれた精神の完全な堕落を意味する。つまり、イエスはここでこう言っているのかもしれない「肉体の欲望にまみれて地獄に入り浸るのはやめなさい。肉体的な執着を切って捨てて、あなたの内なる光を輝かせなさい。それが父への最高の帰依なのだから」と。
観自在力についてのルカ書の記述
前掲ルカ福音書に「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」とあるのは、観世音菩薩のことを言っているようでもある。法華経の其処彼処に出現する次のような描写は、もうルカ書「体のともし火は目」の世界そのままに筆者には読めてしまう。
観世音菩薩は、自ら輝きつつ世界を照らし出す。(『真訳法華経』p235)
輝かしい眼の持ち主よ、……清浄な眼の持ち主よ(『法華経』岩波文庫)
また、ふたつの聖典に関するこうした一連の共通性や類縁性を見てきたうえで、冒頭で引いたマタイ書5章をあらためて読むと、そこには世の光が「すべてを照らす」と書かれている。マタイやルカは、イエスの言葉をとおして、観自在力について書こうとしたのだろうか、とさえ思えてきてしまう。
【参考】
イエスの生涯 (人文書院)単行本 – 2000/8/1 エルネスト ルナン (著), Ernest Renan (原著), 忽那 錦吾 (翻訳), 上村 くにこ (翻訳)
聖書 新共同訳(日本聖書協会 1987, 1988)
法華経〈下〉 (岩波文庫 青 304-3) 文庫 – 1976/12/16坂本 幸男 (翻訳), 岩本 裕 (翻訳)
真訳 法華経—釈迦の「授記」によって生み出された全創造世界の秘密 単行本(廣済堂出版) – 2022/5/4小宮光二 (著), 奥平亜美衣 (著)
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