現世利益その1 ユダヤ教をめぐって

イエスキリスト

 

塵は元の大地に帰り、
霊は与え主である神に帰る。

(コヘレトの言葉12:7)

 

 

観音経のことを考えていて、現世利益といえば思い出したのがユダヤ教と観音様の観音経という正反対のふたつだった。

観音経(=法華経観世音菩薩普門品)はあらゆる世界に生まれたすべての生命をさとりに導く教えとされている。これが一部の世俗では現世利益をかなえてくれるありがたいお経として広まっている。

仏教に物質的な見返りを期待するのはどうかという問題はあるものの、わたし個人は観音経に現世利益は“ある”と思っている。ただしそれが信仰の主目的ではなく、飽くまでも付随的な効果として、皮相的な意味での現世利益が発現するのだというふうに考えている。

いっぽうで、ユダヤ教は徹底して現世での物質的救済を志向する宗教だ。

 

ユダヤ教は神とユダヤ民族との「契約一神教」で、魂の救いというよりも、唯一絶対のヤーウェ神を信奉するユダヤ人たちの物質的繁栄を追求する宗教だ。

ユダヤ教には来世や天国・地獄といった死後の世界がない。旧約聖書創世記「善悪の知識の木」の説話は、読みようによっては二元性の世界のはじまりについての話とも取れる。蛇によればその木の果実を食べれば「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3:5)。

つまり蛇は、それを食べれば神にはなれないが「のようなもの」にはなれると言っている。

いったい善悪の知識とはそういう性質を持つのだろう。つまり、そんなものを知ってもなんにもならない。それどころかそれを知ると死んでしまう。果実を食べて知識を得たアダムはこう言った。

「わたしは裸ですから。」(創世記3:10)

こうして人(=アダム)は、《わたしは~である》という論理形式を体得してしまった。聖書によればわたしが今こうやってこんな文章を書いているのもはじまりはアダムからということになる。

アダムのこの言葉以降、《すべて》から分離した《わたし》という論理構造の中で、人は架空の「~のようなもの」として生きることを強いられるようになった。今やこの二元性の世界で、《善/悪》あるいは《正義/悪》、それとも《白/黒》あるいは《光/闇》のはざまで、人は砂漠の蜃気楼のようにゆらぎながら生きている。

 

 

コヘレトは言う、

光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。
賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。
しかしわたしは知っている
両者に同じことが起こるのだということを。
(コヘレトの書2:13~14)

人がもともと要らない「知識」というものを手に入れたいきさつについて、人々はそれこそ二元性の産物といえる無数の可能性を考え出し、ああでもないこうでもないといつまでも論駁しあうだろう。それら際限のない思いつきは空(くう)なのだとコヘレトが諭すにもかかわらず。

人において、そもそも善悪の知識など必要なかったのは明らかだ。わたしたちが3次元世界で生きる苦痛の根本原因はそれなのだから、と創世記は伝える。

「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」(創世記3:17)

そして神はアダムにこう宣告するのだ、「塵にすぎないお前は塵に返る」。

キリスト教では死後よい行いの魂は天国に行く。イエス・キリストは旧約の「食べ物」を「命のパン」に置き換え、魂の救いの道をひらいた。だがユダヤ教の世界では人は人である以上、死んだらただ塵になってしまうだけだ。

ユダヤ教には来世での魂の救済という考え方がなく、唯一神ヤーウェを信ずる者たちにとってのいちばんの良い生き方は、自分たちの聖典に忠実に、頑迷なまでに忠実に生き、そのように「神の戒め」を守って生きた結果として現世での幸福と繁栄を獲得する、という生き方だ。

 

後の時代の民数記には不動産登記簿のように詳しく区分が書かれているけれど、約束の地について創世記では

その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」(創世記15:18~21)

となっている。相当に広大な領域だ。ヤーウェは「この土地を与える」とは言っているが、現実にはユダヤ人たちは各種先住民が住んでいるこれらの土地を力で奪い取る格好で安住の地を得た。カナン人たちにとって見ればユダヤ人は迷惑な侵略者ということになる。ユダヤ古代史は力による強奪の歴史そのもので、彼らは周辺国や民族との間の支配・被支配の応酬を繰り返してきた。

出エジプトのモーセの姿からは、民衆を惹きつけるカリスマ的な統率者像と同時に、卓越した軍事的才能を持った戦争指導者のイメージも読み取れる。モーセの後を継いだヨシュアもまた闘志あふれる猛将だった。以後旧約聖書の世界ですぐれた軍人を挙げればきりがないが、ダビデはスリングの名手。巨人ゴリアテを一発でしとめた。

神ヤーウェは「万軍の主」の呼び名のとおり、戦争神としての性格が強い。旧約聖書の世界は土地収奪と支配・被支配の抗争、怨嗟と復讐劇にいろどられている。また、ローマ帝国とのユダヤ戦争の後、各地に散ったユダヤ人たちの苦難の歴史は広く知られている。

 

 

とにもかくにもユダヤ人たちは、生存競争に勝ち残った。

20世紀の建国後、周辺国と紛争を繰り返してきたイスラエルは、いわば昔も今も戦時国家だ。

湾岸戦争やイラク戦争のころに書かれたあるジャーナリストの「ホワイトハウスはイスラエルのために働く」という一文が記憶に残っている。当の米国人やユダヤ人たちはうわべでは「そんなことはないよ」と否定するかもしれない。でも世界中の人たちはごく当たり前にそう思っている。

端的に言って、闘争と支配、収奪、搾取で築きあげた資本主義の物質文明の栄華こそが彼らの“現世利益”なのではないか。

ユダヤ系金融・情報資本のごく少数の大金持ちが世界を牛耳っていると陰謀論などでよく言われる。ただ彼ら何人かの大金持ちとシオニストたちは一枚岩ではなく、むしろお互いを嫌悪し合っているようだ。だが同時にお互いをうまく利用し合っている面もあるだろう。

21世紀に至り、地球人は歴史上空前の物質的繁栄を手にしたと言われる。ただし恩恵に浴するのは資本主義側に属するごく少数の人だけだ。絶頂期にある彼らは近い将来バベル的な崩壊と衰退を経験するかもしれない。

 

 

聖書には珍しくマラキ書は輪廻転生を思わせるような像を描出する。竜巻で天に召し取られたエリヤが「主の日」の前に、ふたたび肉体をもって《この世》に現れるのだという。

見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。
(マラキ書3:23~24)

“現世利益”の信徒たちは万軍の主の強大な一撃を避けるために、あの手この手で物質的延命を図ろうとするに違いない。

しかし(唐突だが観音経で明らかなように)、究極の現世利益とは苦しみの原因を根源的に除去することだ。

それはマラキ書最後の一節にあるように「父の心を子に/子の心を父に向けさせる」ことで得られるだろう。わたしにはこの2行が、受難を前にしたイエスの祈りに一本の道でつながっているようにも見える。それは「既に世に勝っている」者だけが体現できる、すべての生命を救済に導く永遠の慈悲の心ではないだろうか。

 

(聖書引用は新共同訳)

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